[129]ラストメッセージ

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たまごや様を介してのこのメルマガを発行するのは今回で最後になる。諸君が俺のメッセージを受け取るのは最後になるかもしれない。今まで俺は精神論を殆ど書いてこなかった。このメルマガで教えるのは事実で、慰めは牧師の仕事だと思っていたからだ。だが今回は諸君に魂を込めたメッセージを送りたい。

俺は今まで10年以上いろんな人を介護してきたが、利用者からいろんな事を言われてきた。感謝をされたこともあるが、罵倒されたこともある。殴られたこともある。しかし、その中でも俺が最も聞きたくないセリフがある。

「年をとっても本当にろくな事がないわ。私もいい加減にもう死にたいわ」

よく高齢者施設に勤めているとこんなセリフを吐く老人が少なからずいる。尊敬してほしいのか、それとも同情してほしいのか知らないがみっともない甘えもいいところだ。長い介護人生で何度も聞いたが本当に頭にくる。本気で「死にたい」とは思っていないところに余計怒りを感じる。もしこれが自分の親なら虐待と言われても仕方ないぐらい殴り倒しているだろう。

「甘ったれてんじゃねぇ!!この世界にはおのれみたいに長生きどころかろくに生きることもできない人だっているんだ!どれだけ自分が恵まれてるか知らないで、よくそんな事を言えるな。アンタみたいな人間なんかいない方が税金と保険料の節約になっていい。今すぐそこの窓から飛び降りろ。何なら介助してやろうか?」

勿論こんな事は口にしないし、内容も実行することはない。ただ俺はこの類のセリフが非常に大嫌いで仕方がない。不幸なのは自分だけだと思っているのだろうか?自分が今生きていられるのは家族や周りの献身があるからではないのか?要介護状態でも衣食住に不自由しない環境はある意味人類の理想郷だった。自分が不幸だと思うのは本当は恵まれていると気付いていないだけではないのだろうか?

そしてこの「もう死にたい」と言うセリフはいかに自分の人生に満足していないかの裏返しでもある。怒りと同時にこうも思う。どうして「生きてきて幸せだった」と自然に口に出るくらい充実した人生をなぜ過ごさなかったのだろうか?

こんな老人の愚痴を耳にした介護職員もこんな事を思う人が多い。「やっぱり年取ったらボケる前にぽっくり死んだほうがいいね」だが、俺はそんな主張には到底同意しない。自分が高齢者になるのが当たり前だと思っている傲慢極まりないセリフだ。死期を自分で決める事は出来ない。ある人は100歳まで生きていても、マイケル・ジャクソンみたいに50歳で死亡する事もある。貴方達も明日交通事故に遭って死亡するかもしれない。だが、ここで胸に手を当てて考えてみて欲しい。果たして俺たちは明日死んでも納得できるぐらい充実した人生を送っているだろうか?もし返事がノーなら今日からでも納得できる人生を送ろう。

前述した「もう死にたい」と口にする老人たちはその努力を怠ってきた人々なのだ。長生きできるのが当たり前だと思い込み、ただ漫然と流されるように生きて来た結果、改めて自分の人生に満足感がないという事実に絶望しているのだ。だが、要介護状態になってそれに気付いてもあまりにも遅すぎる。

人生80年と言っても本当の意味で「生きる」事ができるのは80年ではない。人生要介護状態になったり、出産や育児、親の介護などで好きなように生きる時間は思ったより短くなる。だから自分が「生きる」事ができるうちに充実した時を過ごして欲しい。何もしなくても長生き出来るのが当たり前だと思っていはいけない。

もうひとつ当たり前だと思ってほしくない事がある。親や兄弟や家族、もしくは友人、恋人や同僚など愛する人がいる事を当然だと思っていはいけない。第51号「ヒューマンスキル」で俺は利用者には何よりも人付き合いのスキルの方が大事だと主張した。この事は健常者にだって同じである。人と人との絆こそこの世で最も人間が切望するものだからだ。

施設で長い間介護してきたが、この「絆」を無くしてしまった人は実に多い。そもそも社会で他人や家族と上手くやっていけないからこそ施設に入る羽目になった人が多い。皮肉なことに人間の愚かな性で、人と人との絆は無くしてしまってからその大事さに気付く。施設でヒューマンスキル大事にして来なかった人の余生は悲惨の一言だ。亡くなっても誰も泣く事もなく、それどころか「死んでくれて良かった」と介護者ばかりか家族にまで言われる人もいる。

かつて杖で俺に殴りかかってきた男性は本当に家族や周りの人々を大事にしなかった。身勝手なわがままで家族や介護者を散々困らせた。軍人だった彼は在日韓国人や中国人を見下す筋金入りの人種差別主義者だった。その彼が死亡した時の光景は一生忘れられない。元軍人でそれなりの人付き合いがあるはずだが、なんと通夜での参列者はたった4名だった。俺は職業柄通夜に行く事が多いが、ここまで出席者が少ない通夜は見た事がなかった。人と人との絆を大事にしない代償は哀れなほど高くつく。

どちらかと言えばこういう人々は「自分を変えられない人」とも言える。醜い自分、身勝手な自分、愛されない自分を直視することなく悪癖にしがみついたがゆえにみじめな老後になってしまった。「老後の心配」と言うとよく金銭的な問題を想像するが、実を言うと精神的な孤独の方が深刻なのだ。

一方、施設に入所していても面会者が絶えず訪れ家族に愛されていた人もいる。ある死亡した女性は「生まれ変わってもまたこの家族で一緒になりたい」と生前言っていた。俺はこのセリフが忘れられない。ここまで言えるぐらい家族や愛する人と良好な関係を築いているだろうか?

もう一度言うが自分を支えてくれる家族や友人、恋人など近い人がいるのを当たり前と思ってはいけない。そして感謝や愛をできれば直接言葉で言える内に言っておいてほしい。「いつでも言える」なんて思ってはいけない。最初に強調したが人生は永遠ではない。その終わりはいつ来るのか誰にも予想できない。生きていても認知症になったり脳梗塞などで植物状態になってしまえば貴方がいかに愛していたのか知る事はできないだろう。

これまで2年以上も言いたい放題書いて来た。ここまで購読してくれた諸君には本当に感謝している。読めば気分を悪くさせるメルマガを最後まで解除することなく購読してきた諸君はおそらく真剣に人生を考える人たちのはずだ。どうか偽りに惑わされることなく、現実を直視して生きて欲しい。このメルマガで俺は真実を書き続けてきた。現実は辛い。だが真実こそ人を自由にして幸せにする事を忘れないでほしい

このメルマガの存続について多くの人々から存続希望のメールを頂いた。メールを頂いた方にはこの場で感謝の意を表したい。今まで2年以上書いて来たがこのメルマガを必要としてくれる人々がいて本当に光栄だ。当初そんなに存続希望のメールは来ないだろうと思っていたが、本当に作家冥利に尽きる。存続の要望に答えるべくこのメルマガ終了後も連載を続ける事にした。今度はブログで俺の毒舌を発揮したい。

PCからは http://blog.zaq.ne.jp/socialservice/
携帯からは http://blog.zaq.ne.jp/m/socialservice/

これからも福祉に関して他では聞けない真実を発表していくつもりだ。
たまごや様にもこれまでのご助力を感謝申し上げたい。

エル・ドマドール

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[51]ヒューマンスキル

[128]介護レベルの低下

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あとこのメルマガも残り少なくなってきた。まだまだ言いたい事は多いが今回は前回の続きでなぜ介護のレベルが低下するのかを説明したい。

何度も言うが、これだけ福祉が社会の中で大きな位置づけを得ているにも関わらず、介護のレベルは上がるどころか下がっている。ヘルパー2級講座でも最低限の実習と学習はしているはずだし、法人や会社でも教育研修は前に比べるとはるかに充実してきた。なぜだろうか?

*競争はレベルを上げない

資本主義の論理でよく「競争すればサービスの質が良くなり、価格が下がる」と言われている。介護保険の導入時にもこの論理でサービスの質が良くなると言う有識者が多かったが、所詮は現場の事を全く分かっていない机上の空論だ。競争の意味が福祉においては全く違うからだ。福祉には競争がある分野とない分野がある。競争があるのがデイサービスやホームヘルパー、有料老人ホームなど。一方特養や老健、グループホームなど入所系施設は需要が多く競争などあり得ない。だから競争があるデイサービスやホームヘルパーなどは他社と切磋琢磨してレベルを上げているかと言うとそれも違う。実を言うと今の介護保険制度ではどれだけサービスのレベルを向上させても貰える報酬は全く上がらない。その当時のトレンド、例えばユニットケアなどを行うと介護報酬が上乗せされるがそれも微々たる額でしかも数年経てば増額の対象外になる。他のサービス業のように価格にコストを全面的に転嫁できるわけじゃないから、事業者は利益を得るためにどうしても人件費などのコストの削減に励むしかない。そもそも福祉は金がかかるにも関わらず、介護報酬が低すぎるのだ。だからドングリの背比べのような事業者ばかりになってしまう。

*雇用者に介護能力の差は見えない

俺もこのキャリアを続けて10年以上になるが、はっきり言って上司から介護を教わった記憶は少ない。なぜなら技術的になっていない上司が多いからだ。最近は特に酷い。おむつ交換一つまともにできないリーダー、主任は非常に多い。体位交換、着衣着脱介助、移動介助など介護技術はなんとかごまかせても実際の現場介護となると足手まといになる上司が多い。介護知識は研修などで小賢しい知識はあってもその知識をどう現場に生かすのか?という実践ができない。例えば認知症の老人が食事したにも関わらずに「私はまだ食事を貰っていない!!」と訴える時にどう対応するのか?このようなシチュエーションで部下から助けを求められても、殆どの上司は具体的な指導ができない。だからこそ部下から助けを求められても「自分で考えろ」と突き放す上司が多い。本当に判らないから指導ができないとは口が裂けても言えないのだ。

上司がこの様では介護レベルなんて上がるわけがない。他の業界では信じられないだろうが福祉においては介護レベルが無能でも上司が勤まるのだ。どうしてそうなるのか?それは上司に抜擢する側、つまり雇用者である経営者が介護の事をあまり判っていないのが大きい。介護は野球やサッカーみたいに明確な結果が出るわけではないし、パフォーマンスが公開されているわけではない。だからこそ上司に選ぶ基準として「体裁がいい(上司っぽく見える)」「雇用者が気に入っている」など介護と関係のない基準が用いられるわけだ。利用者やその家族だって介護者のマナーなどすぐ判る部分にはクレームを付けるが、介護の内容の優劣については判らない人がほとんどだ。介護には優劣がある。しかし、それは判りにくいのだ。

*雇用者は介護レベルを上げる気などない

雇用者が介護の本質を判っていないのも無能な上司を蔓延らせる原因の一つだが、それ以上にもっと深刻な理由がある。実を言うと、殆どの福祉の経営者は本気で介護レベルを上げる気などない。身も蓋もない言い方をすれば誰が介護しても同じだという認識なのだ。この意見に抵抗を感じる人は多いだろうが、長い介護経験からこう結論せざるを得ない。なぜなら今の福祉制度最大の欠陥はどんないい介護をしても貰える報酬は同じだからだ。これは何千万と言う入居金を取る有料老人ホームでも同じことだ。施設が満床になってしまえばそれ以上収入が増えようがない。だったら有能だが鼻っ柱の強い生意気な人間よりも組織の理念に従う(=会社の言いなりになる)従順な人間の方を上司にしたがる。

一般企業の営業やデイトレーダー、あるいはJリーガーのように稼いでくる事が大事であれば、多少組織に対し批判的でも黙認せざるを得ない。しかし、介護職はいくら能力が良くても売上に反映しない。利用者からいいケアしても「ありがとう」と感謝されても介護報酬が余分に増えるわけじゃない。だからこそ雇用者にしてみれば「介護者なんか非識字者でもない限り誰でもいい」と言うことになる。言っておくがこれは採用する時も同じだ。前にも何度も述べたが、福祉の雇用者が最も嫌がる人材は福祉のベテランだ。なまじ福祉に詳しい人よりも未経験の素人の方が採用されやすい。ベテランよりも新人の方が育てるのに時間がかかりそうだが、そんな心配は無用だ。どの福祉の職場も内心「自分の施設の教育システムで世界一だ」とさえ思いこんでいる。勿論そんなもの救いようのない幻想だが、そんな幻想を破壊する人間こそ福祉の職場が最も恐れるものなのだ。

今週もいかがだっただろうか?たまごや様でのメルマガ発行が来週で最後になる。メルマガの発行については「続けて欲しい」との意見も頂いた。だが、まだ俺自身は迷っているのが現実だ。まだネタはあるが、正直需要があるのかどうか疑問に感じる。面倒でなければ諸君の忌憚ない意見を聞かせて欲しい。

エル・ドマドール

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