[116]認知症シリーズ(9)隠れた認知症

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前回は認知症でない物忘れが認知症だと誤解されやすい事を書いた。今回はその逆、認知症なのに認知症だと思われていない「隠れた認知症」について語ろう。

第74号「知的障害者(上)」を覚えているだろうか?俺はそのメルマガで知的障害者について明確にその定義を定めた法律がないことを主張した。知的障害者の定義がないために、福祉の保護を受けるべき知的障害者がセーフティネットから放置されている実態を明らかにした。

だが、認知症の場合も似たようなケースが良く見られるのだ。知的障害者と違い、認知症には法律の保護もあり定義もきちんと定められているにも関わらず認知症老人が認知症だと診断されていないためにきちんとした介護や医療を受けていない実態があるのだ。

例えばよくニュースやワイドショーで話題になるゴミ屋敷。近所迷惑もいいところだが、実を言うとゴミ屋敷の住人の多くは認知症だ。計画遂行能力の低下、判断力の低下、収集癖、客観性の低下、記憶障害、いくらでも認知症の兆候は見つけられる。助けてくれる家族でもいれば認知症診断を受けてヘルパーサービスなど適切な介護を受けて安定した生活ができるかもしれない。しかし、彼らには親しい友人や家族、心配してくれる隣人がいないために荒れ果てたゴミ屋敷に埋もれてしまっているのだ。

こんな話をすると老人の孤独死同様、「核家族化が進み、単身者世帯が増えた」「共同体意識がなくなりつつある」と社会学の問題にする学識者が多いが、そんな大げさな問題ではない。元々ゴミ屋敷の住人は認知症になる前から他人とうまく折り合いができない人々が多い。家族がいたとしてもトラブルや諍いを起こし、絶縁状態になっているケースも少なくない。認知症や障害を持っていると人間関係のトラブルも障害の一つと考える福祉関係者は多い。

確かに認知症になると、精神後退が進み我慢ができないなど人間関係に悪影響が出ることはある。だが、本人の人間性の問題を認知症のせいにすることはできない。人間関係の悪化は例え認知症でも多少は本人に責任がある。こんな事を言うと「利用者を軽蔑している」と勘違いする人が多いため言いたくないが、どこにでも嫌われる人がいるように彼らが社会から孤立するのは傲慢さや自己中心性など単に「性格が悪い」と一言で済む問題に過ぎない。

嫌われ者でも障害がなければ日常生活に支障はないだろうが、年老いて認知症になると誰も助けてくれないために本人ばかりか周りまで巻き込む厄介極まりないトラブルメーカーになってしまう。そして民生委員や警察官でもない限りそんな社会不適合者にわざわざ近づきたがる物好きはいない。例え本人と接触できても認知症診断を医師から受けて、介護サービスを受けさせるにはさらに高いハードルを飛び越えないといけない。

まずは本人の壁だ。本人の自我が強く、軽い認知症の場合、認知症診断を受けさせるのは至難の業だ。重度で自分の意志表示がはっきり言えないぐらいの認知症ならまだしも、比較的軽度の認知症の場合は本人に自分が認知症であるという病識がないことがほとんどだ。そんな人々に「認知症診断を受けましょう」と勧めても怒らせてしまうだけだ。

本人の病識の無さも問題だがこれに家族が関わるともっと問題が複雑になってしまうケースもある。福祉関係者から利用者が認知症であると指摘を受けてもその息子や娘、あるいは配偶者が頑として自分の肉親が認知症であることを直視しない事があるのだ。交通事故を起こしたり、火事を起こしたりするとやっと現実を認め始めるが、そうでない限りなかなかどの家族も自分の親が認知症になっていることを積極的に認めようとしない。ケアマネージャーや医師、ヘルパーなどその筋のプロからいくら助言を得ても一向に耳を傾けない家族も珍しくない。だが、家族はそうやって現実逃避をしていればいいが、認知症だと診断されなくて一番不利益をこうむるのは認知症にかかっている本人なのだ。

どうして世間に人々が認知症を直視しないのかと問われれば、認知症について正しい知識が知られていない事が大きいと答える。実を言うと認知症の見分け方に関しては専門家でさえ判断が難しい。認知症の定義でさえよくわかっていない福祉関係者は珍しくない。例え認知症について正しく知っていても、いざ実際に認知症の疑いがある高齢者を目の前にして認知症かどうか判断するのはまた違った難しさがあるからだ。この問題に関しては認知症に対する恐れや偏見が先行している事が大きいだろう。

エル・ドマドール

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今回は再び認知症について語りたいと思う。偏見や差別はこの業界では珍しい事ではないが、その中で認知症に対する誤解や偏見は少なくない。認知症がどのようなものかは以前に定義を述べた事がある。それは「器質的疾患による脳機能の低下」だった。だが、嘆かわしいことに、福祉関係者や専門家でさえ認知症とそれに似ている症状を混同しているケースは少なくない。

例えばよく中高年者が自身の衰えを気にしてこんな言葉を言うのを聞いたことがあるだろう。「私も最近年のせいかな?忘れっぽくて・・・病院の予約が何時だっ たのか思い出せないことがあるのよねぇ。ボケたのもかもしれないわ」

中高年者からこのような愚痴が聞かれることは多いが、実を言うとこれはいかにまだ世間に認知症と言うものが正しく理解されていないかわかる好例とも言える。上のケースははっきり言ってしまうと単なる「物忘れ」(良性健忘)だ。ここで俺は言っておきたいが、社会の人々は良くも知らないでちょっとした物忘れをすぐに認知症に結び付けたがる。だが、認知症と単なる良性健忘は全く似て非なるものだ。それは近眼を遠視と間違えるようなものだ。どちらも矯正が必要かもしれないが、症状は全く正反対だ。世間で認知症という言葉を知らない人は珍しいが、きちんと定義や症状を語れる人はまずいない。今回は良性健忘と本当の認知症はどこが違うのかそれを教えよう。

そもそも「忘れっぽくて・・・」と自分が物忘れしやすい自覚症状があるならまずは大丈夫だ。認知症の場合は自分が忘れやすい事すら認識が難しい。そして良性健忘の場合はヒントを与えられると思い出せる事が多い。例えば貴方が86年のワールドカップ優勝チームを忘れてしまったとする。そこでヒントを与えてみよう。その年のワールドカップで大活躍したのはマラドーナ。神の手ゴールや5人抜きなどで大活躍だった。そしてそのマラドーナがいたチームは・・・・アルゼンチン。そう86年のワールドカップ優勝はアルゼンチンと思い出せるだろう。

しかし、認知症の場合はヒントを与えても思い出せない事が多い。また上の例では病院の予約の時間を忘れているが、認知症の場合は病院の予約をしたこと自体を忘れてしまうだろう。いずれにしても認知症の場合と単なる良性健忘の最大の違いは日常生活に支障が出ているかどうかだ。最近料理や洗濯を失敗するようになった。服を収納した場所が分からない、または服を出し散らかすことが増えた。ごみが散乱しており、掃除ができていない。車を運転していて、逆走など危険な目に遭うことが増えた・・・・以前にはできていたことができなくなっている時に認知症だと疑うべきなのだ。

先ほども語ったが認知症という言葉は比較的世間では知られている方だが、実を言うとこれほど歪曲されて誤解されているものはない。そもそも認知症と言われる前は痴呆と言われていたのだ。そして痴呆の前はボケと呼んでいたのだ。どうして呼び方が変わったのか?痴呆やボケでは与える印象が偏見を招くと言う理由でだ。俺もこのメルマガでは便宜上、認知症と書いているが、実に下らない。結局認知症と呼ぶようになっても相変わらず認知症への正しい理解は痴呆やボケと呼んでいた時代と比べても殆ど進歩していないではないか。認知症に対する偏見は「認知症になりたくない」という恐怖や不安がそうさせているところがある。しかし、前にも語ったが高齢者だからと言って誰もが認知症になるわけでもない。65歳以上の高齢者で認知症の人はせいぜい1割ぐらい。そもそも認知症になれるぐらいの高齢化社会は今までの歴史上でも、これ以上ないぐらいある意味恵まれたものだと言っておく。

今回は認知症とは似ても似つかないものがいかに認知症と思われやすいかを書いた。次回はその逆、認知症なのに認知症と診断されていないケースを語ろう。

エル・ドマドール

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