〔14〕できる仕事、できない仕事

こんにちは、しじみです。一昨日から会社では仕事の話より、NYの世界貿易センタービル炎上の話で持ちきりです。私の周りには「戦争になったらどうしよう」なんて心配している人もいれば、「次はサンシャイン60じゃない?」なんて脳天気なことを真顔で言ってる人もいて、“人は色々なんだなぁ”と非常に興味深いものを感じました。かくいう私も第一報を聞いた時点ではスッカリ「浜松町の貿易センタービル」と思いこみ、翌日会社でそのことを話したら、周りの人に「君は本当に危機管理が甘そうだね」なんて言われてしまい、一気に落ち込んでしまった次第です。このテロ事件、日本も狙われていたとのこと。今後日本に飛び火するようなことのないよう、祈るのみです。

私は派遣スタッフだ。派遣という肩書きで5年もやってりゃ、様々な企業を渡り歩くわけだから、それなりに適応力も備わり、うまい立ちまわりも覚え、そろそろ“派遣のプロ”になってもいい頃だろう。しかし、どの企業に属していても時として「大きな疑問」を感じることがある。

就業先が決まった段階で、派遣会社からは「就業条件提示書」たるものが送られてくるが(呼び方は各派遣会社によって様々)その書面の業務内容の欄には“OA機器取り扱い業務”“経理業務”“営業事務”というような書き方しかされていないことが多い。

もちろん子供ではないのだから、「これはやってください」「ここまではやる必要ありません」などと明記する必要もないのだろう。社会人なのだから、ある程度は自分の判断で仕事をしていくべきだ。

しかしながら、実際現場で仕事をしていると“あれ?これって私がやるべき仕事なのだろうか”などという疑問がけっこう多いことに気付く。

私の現在の業種は「営業事務」だ。しかし実際にはそれに加え“ファイリング”“部長の秘書的業務”、支払いに関する“営業経理”的なことまでやっている。つい最近では、取引先の関係で毎週届くお花を社長室と部内の2カ所に分けていける“お花係り”という業種も新しく加わった。

「ここまでやるのはゴメンよ」と投げ出したくなった時期もあったが、“少し無理をすればできないことでもなかった”という理由と、“何事もやっておいた方が後々役に立つこともあるかもしれないから”という2つの理由から私はそれらを引き受けた。

そう、どんな仕事もそうだと思うが、派遣にも完璧なマニュアルというものはない。業務内容うんぬんではなく、大切なことは“自分の出来得る範囲でとりあえず、やってみる”という気持ちだと最近思うようになってきていた。

そんな風に珍しく前向きに仕事に取り組んでいた矢先、課長に呼び出され、仕事の話をされた。

4号の“時間の使い方にマイッた”でもちょっと触れたが、うちの会社は手書き処理が多い。つまり二度手間の部分が非常に多い。

課長からの仕事の話というのは「その部分を改善するためにシステム部の人間と相談しあってうちの部に合ったシステムを作り上げて欲しい」ということだった。

仕事の大切さを見直していた時だっただけに、正直腰が抜けた。私は営業事務なのであって、システムエンジニアではない。エクセルやワードなどのアプリケーションの知識だって無いに等しい。なのに、その私に「システム部と相談してそれなりにパソコンで処理できるものを作れ」?

明らかに、これは私の契約内容以外の仕事だ。いくら許容範囲の広い私といえど、そこまではできない。単純に嫌だから“できない”と言っているのではない。知識がないから“できない”わけだ。心の中にドロのようなコッテリしたものが渦巻いていくような気がした。

悔しい。「できない」ということはとても悔しい。“会社のために、自分の勉強のためにやりたい”という気持ちはある。“派遣スタッフはなんでもできる”とでも思っているのだろうか。私は便利屋ではない。ましてやシステムを作る仕事に携わった経験もない。専門の人を雇えばいいじゃないか。

いったいどこからどこまでが“派遣スタッフとしての私の任務”なのだろうか。そんなことを改めて考えさせられる出来事だった。契約書の中の「業務内容」欄の下に(ちょこっとでいいから)「非業務内容」欄てなものも記載しておいてくれると助かるんだけどなぁ…。

2001.09.13

〔13〕心の穴

台風が過ぎ去ってから、朝晩少しずつ肌寒くなってきましたね。先日なんの気なしに空を見上げたらうろこ雲が出ていて「もう秋なんだなぁ」と実感。この季節になると私は毎年急にせつなくなります。普段は気付かないような小さなことに気付いたり、本や映画を見てもいつもの倍くらい感情移入してしまったりします。不思議ですね。今回はそんな心の不思議について考えてみました。

毎度のことかもしれないが(笑)、先日仕事で本当に頭にくることがあった。長くなるので、また別の機会にお話できればと思うが、原因が営業マンの“連絡ミス”というあまりに単純なことだったため、余計に腹がたった。

私はその日夜7時から友人と食事をする約束をしていたのだが、その約束に大幅に遅れ、タクシーを使い現地に向かった。

レストランに着いた私は友人にひたすら謝り「かくかくしかじかで」と事の顛末を話した。何故かその時の私はもう怒りで我を忘れた状態で、どうすればうまく心の切り替えができるのか、それすら考えることのできない状態だった。

仕事、人間関係、自分のこれから、など、1つうまくいかないことが発生するだけで、全てをネガティブに考えてしまう、そんな悪い癖が私には昔からある。

たった1つ仕事がうまくいかなかったことから、挙句の果てに自分の将来ことまで悲観しはじめてしまった私は、今までずっと心の隅っこに意識的に隠しておいた「先々の不安」を話しはじめてしまった。

私の話をニコニコ聞いてくれていた友人は、静かにこう言った。「しじみは偉いね。それに比べれば私なんてあまり真剣に自分のこと考えてないのかもな。私の夢はおばあさんになった時、“星に願いを”を英語できれいに歌えたらなんてすてきだろう、とかそういうことだもの。だから2カ月前からボーカルスクールに通いはじめたんだけどね。でもこれがなかなか難しくて。」

そういって、彼女は照れたようにクスクス笑った。

その時、私はなんだかふっと情けないような気持ちになり、肩の荷がおりたような、力の抜けた気分になった。理由はわからない。彼女の雰囲気、彼女のちょっと力を抜いた地に足のついた生き方、そんなものを感じてるうちに、たかが仕事がうまくいかなかっただけで、ブリブリしている自分が急に滑稽に思えてきた。「ああ、そうか。それでいいのか。」うまく言えないが、そんな気持ちになったのだ。
人間の身体には(特に変な意味はないが)色々な穴がある、と私は思う。心は目に見えるものではないが、その“心の穴”というのはとても大切なものだ。身体にある目に見える穴とは違って、それはあいたりうまったりする。

淋しい時にも、煮詰まってる時にも、ショックな時にも、そして何かにひらめいた時や、新しいものが入ってくる時にもその穴はあく。そしてその穴が、どんなことによってあいて、更にそれをどんなもので埋めていくかはその人次第で、それがとても重要なんだ、と思う。

その晩、私は彼女にとてもきれいな風通しのいい穴をあけてもらった気がした。こういったちょっとした日常の中で、大切なことを私はいつも友達に学ばせてもらっているんだ。その日パンパンだった私の心は、また新しいものを受け入れられる状態になった。

この穴をどんな風に埋め直していくかは、私次第。ちょっとくらいいびつでもいいよね。ピッタリにうまらなくてもきっと大丈夫だよね。でもきれいなもので埋められるように、この穴、大切に大切に使うね。ありがとう。とろけそうなデザートを味わいながら、私は心の中で友達に感謝した。

私も彼女のように人の心に風通しのいいきれいな穴をあけてあげられるような、そんなすがすがしい人になりたいなぁ。

2001.09.06