〔53〕感謝

「がんばる派遣美人」がなんと今週で1周年を迎えました!(パチパチパチ)“何かを続ける”ということに今まで執着することができなかった私にとってはこれはすごい出来事であり、また1年がアッという間の出来事だったせいかネットの中では現実とは違った時間が流れているような気がして今とても不思議な気分です。こんな私にお付き合いくださった皆様に感謝、感謝です。

私の祖母は非常に敬虔なキリスト教信者だ。小さい頃、祖母の家に預けられることの多かった私は、毎晩聖書を読んでもらい、(今では忘れてしまったりしているが)色々な教えを教わった。そしてこう言われた。「夜眠る前にはその日一日を振り返りなさい、そして常に神様にお礼を言いなさい」。

母も熱心だったため、小さい頃に洗礼を受け、よくわからないままに日曜学校に通わされていた私は、無意識ではあるにしろ、実はけっこうその影響を受けている。

だからかもしれないが、“人が生きていく上で決して忘れてはいけないものを1つ挙げる”とすれば、「感謝の念」という言葉が浮かぶ。

人に対する感謝、毎日食べ物が美味しく食べられることへの感謝、働ける健康があることへの感謝、自分を怒ってくれる人への感謝、など、数え出したらキリがない程、世の中には「感謝してもいいこと」が溢れている気がする。

でもそんな感謝の念も、毎日が当たり前化すると、何故か、忘れてしまう。

小さなことにカリカリし、社会や人間を非難し、物に当たり散らし、何かにつけブツブツと文句をたれ、タチの悪い酔っ払いのそれのように管を巻く。

「あんな人にはなりたくないな」なんてつい数日まで思っていた人に、自分がなってしまっていたりするものだ。

もしも、今現在「眠る前にその日起こったことを振り返る」というような習慣を作ってしまったら、私なんぞ怒りで眠ることができなくなる日が週に2日は発生してしまうだろう。

何故、小さい頃は簡単にできた「感謝する」という行為が、大人になったらできないのだろう、と思う。

そんな風に漠然と考えていた矢先、私は、目を患った。眼球に肉眼ではわからない程度のキズができ、これがなんとも嘘くさい話しなのだが、その部分にマスカラやアイシャドーで使う“ラメ”が大量に入りこんでしまっていたのだ。

真っ赤に充血し、瞬きをするだけで針で刺されたようなチクチクした痛みが走り、医者からも「これはかなり大きなキズで普通と違っているから、ラメを全て取り除き、縫った方がいいのではないか」と提案された。

最近事情があり半休を取ることがしばしばあった私は、「自分のことでは決して休みたくない」と腹をくくっていたので、化粧ができないということと、縫わないと治らないかもしれないという事実にスッカリしょげ返り、どうしていいかわからなくなってしまった。

そんな私に部長は「山口さん、一生懸命頑張るのもいいけど自分の身体のことを第一に考えなさい」と、同僚の男の子は「すごく心配なので、もう仕事なんてどうでもいいですから、今日は午後から医者に行ってください」と、本当に心配そうな面持ちで言ってくれた。

もし、私が逆の立場でも同じようなことを言ったと思う。

当たり前のことかもしれないが、なんだかそれがすごく嬉しかったのだ。心身共に弱くなっていたからなのかもしれない。「あと少しでこの会社ともお別れなのだ」という複雑な気持ちがそういう感情をもたらしたのかもしれない。

そのあたりはよくわからないが、“そう言ってくれたこと”が嬉しかったのではなく、“そう言ってくれる人がいた”ことが嬉しかったのだと思う。

私は無力だが、周りの人の力があって、はじめてこんな風に日々生きていることができているのではないか、この2年間も散々文句を言ってきたが、この人達がいるおかげで、ここまで頑張ってこれたのではないか、と虫のいい話しかもしれないが、なんだか今までになく、素直にそう思えたのだ。

自分が弱くなっている時だけでなく、強くいられる時も、時々はいつもと違った場所に立ち様々なものに感謝できる、そんな人間でありたいな、とつくづく思う。

2002.06.21

〔52〕夢を見るということ

いや~、サッカー、日本強いですね~。私の友人は、このワールドカップのためになんと100万円もするプラズマTVを買ったほど。特にサッカーファンというわけではない私もスッカリ周りと一緒に盛りあがっております。次のチュニジア戦もこの勢いでガンバレ!ニッポン!!

今年に入ってから、何人かの同僚が会社を辞めて行った。

その辞めた友人達とは今でも「元気~?」とか「次行く所見つかった?」などとメールで会話をしているわけだが、最近辞めた中の3人中2人は仕事を辞めたそばから、情緒が不安定になり、家にいても悲しくなってくるというのだ。

「家にいても母親がなんでもやってくれるから、私のいるところがない」「このまま仕事が見つからなかったらどうしようか、と思う」「毎日ずっと時間を食いつぶしてるだけだから、自分が廃人になってしまったようだ」

etc・・・。

思わず聞いていて「?」と思ってしまう。辞めてから1週間も経っていない。しかもせっかく今の会社とは違った場所や経験を求めて、新たな世界に飛び立とうという矢先なのに、ずいぶん淋しいことを言うんだなと思ってしまう。

“これからまた休みなく働かなくてはならないかもしれない”その期間に耐える事ができるよう、与えられた大切な休息時間なのに、と。

以前にも書いたと思うが、私は「長い人生、休み休み歩いたっていいだろう」という考えの持ち主だ。毎日気を張って、OLをやるのなんてまっぴらだ。時には昼夜逆転の生活をしてみたり、廃人のように一日何も考えず、黴が生えるような生活をしてみたっていいじゃないか。

今までの私は何度も会社を辞めてきたわけだが、次を見付けるまでの間というのが(たとえ次にやりたいことが決まってなかったとしても)好きだった。金の計算がヘタクソなせいか、とにかく底をつくまで遊んでしまう。

金があると、平日の夜、友達を誘い「今日はオールしちゃわない?」などと嫌がらせめいた発言をし、みんなに「自分勝手な奴だ」とけむたがられ、友達を失いそうになったことさえあるほどだ。

そんな私からすると、とにかく何が嫌でそんなに不安定になってしまうのだろう、と考えこんでしまう。

しかし、「淋しいから、会社帰りちょっとご飯でも食べない?」と声をかけられ、彼女らの現在の悩みとやらを聞いてみると、実は非常にマジメで超現実的であるということがわかってきた。

彼女らは頭がいいせいか、とにかく計算が好きだ。「働くんだったら、コレくらいはもらえないと・・・」とか「こういう福利厚生がきちんとしている所がいい」「あと何年働いてこれくらい貯めないと」-というように。

よく考えてみると、彼女達には“夢”というものがないのだと思う。うまく言えないが、私が言いたいのは、“将来の夢”ではなく、“想像上の夢”だ。

私が思うに想像上の夢というのは、時にあっけなく「現実」なってしまうくらいの、スケールがあるような気がするのだ。

私はそんな風に「夢」を持っていながら、それを「現実」にしてしまった人を何人か知っている。

その中の一人であるYちゃんという女の子はちょうど去年の今頃、うちの会社を辞めた。

彼女には夢があった。それは「エステティシャンになって、自分で開業する」という夢であり、その大きな夢を端で聞いていた私は「途方もない莫大な費用や、体力、知力、など色々なものが必要なんだろうなー」などと考え、そのスケールの大きさに圧倒された。

しかし、それから1年後の今現在、彼女はその夢物語を叶え、端からみたら、いとも簡単に見えるほどに、現実にしてしまったのだ。

もちろんそれは彼女の持ってうまれた天性の才覚みたいなものもあるだろうがそれだけとも言いきれない。

彼女はたぶん夢を見ていたのだ。現在に至るまでずっと。木枯らしの吹く夕方も炎天下の昼も、一人街頭に立ってビラを配った。それを取ってくれる人がいるまでずっとそうした。

でも彼女はそれを苦労だとは思わない。それは“夢”だったからだ。“夢”であることは人を現実とは別のところに立たせる。そう思う。

私はよく母に「きちんと現実を見なさい」などと言われた。そうしながら生きていくことが最良の方法だとする見方もある。しかし、私は敢えてそうする生き方を否定してみたいのだ。否定して、現実を逃れた時にまた別の何かが見えてくるような気がする。

ポッカリと空いた時間は神様がくれた宝物のようなものだ。“現実”を見過ぎて立ち止まってしまう人にほど“夢”を見ることを知ってほしい、と思う。

2002.06.14