〔56〕終わりに~いらない引出し~

突然ではございますが「がんばる派遣美人」はこの回をもちまして、最終号とさせていただくことになりました。約1年と2カ月。私のようなちゃらんぽらんな派遣OLの愚痴などを聞いていただき、本当にありがとうございました。

皆様からいただいた叱咤激励のお便り、きちんと宝物箱フォルダーに入れてあります。これからも苦しいこと、悲しいこと、また人生の転機の時などにこっそり読ませていただこうと思ってます。

今回断念する理由といたしましては2つあります。私自身がいつの頃からか「派遣スタッフ以上、正社員未満」という気持ちで今の職場で(長く)勤めてしまい、派遣に関する大切なことが書けなくなりつつあること。また親戚の人間が病気を患い、それに関して私の身辺が非常にバタバタしてしまっていること。この2つです。

この原稿を書くことが1つのライフワークになっていた私にとって、非常に淋しいことですが、当分の間、頭の中をクリアにして、また違ったかたちで皆さんにお会いできる機会があれば、と思ってます。

今まで「がんばる派遣美人」をご愛読いただき、本当に本当にありがとうございました。

うちの新人のAちゃんは、よく泣く・笑。

「取引先に怒られた」と言っては泣き、「仕事がどうしても理解できない」と訴えては涙目になる。プイと怒って「体調不良で早退します」と言い、帰ってしまった時もあった。

しかし、逆によく笑いもする。

「山口さんの今の言い方、面白かったです」と言っては、人目も気にせずケラケラ笑い、誰かがつまづいて転んだりしても「大丈夫ですか?」と言う前にプッと吹き出したりする。

そんなもんだから、この3カ月間Aちゃんのリアクションにうまくのれず、「なんだか疲れたな」なんて、考えることも多かったのだが、ここにきてまた引出しのことを考えた。

彼女の引出しは、たぶん私の半分くらいの数なのではないか、と思ったのだ。

彼女の引出しは少ないため、何かを感じてもしまうところがない。だからそれを思いきり、外に向けて表現してしまう。それは時に危険な場合もあるが、ある意味、とても大切なことなのではないか、と私は感じたのだ。

Aちゃんに比べると、私には「感情」というものがない。Aちゃんが笑っている時に「そんなに面白いかな?」と考え込んだり、逆の場合でもそうだ。

私は、会社に入ってから、辛く当たられることがあっても決して泣くこともなく、常に“涼しい顔”を作っているように、心がけていた。そうであることが、「大人」であり、「社会人として大切なこと」だと思っていた。

たぶん、私は不必要な引出を沢山持っている。辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、会社でそれを感じても、家に帰ってそれを「もう決してあけないだろう」引出しの中にこっそりしまう。

そんな引出しを知らず知らずのうちに、沢山作ってしまっていたのではないだろうか、と思うのだ。

急にAちゃんが羨ましくなることがある。しまいこむ引出しを作らず、思いきり出しっぱなしにできるということが、とてもすがすがしいことに思えることがあるのだ。

「もう出さないであろう引出し」は1つあればいい、と思う。そしてその中が悲しい感情ばかりで溢れ出す事がないよう、きちんと鍵をかけられればそれでいいのだ、と思う。

これからはそんな感覚で、もっと自分という人間を出していけたらいいな、と思っている。

2002.07.12

〔52〕夢を見るということ

いや~、サッカー、日本強いですね~。私の友人は、このワールドカップのためになんと100万円もするプラズマTVを買ったほど。特にサッカーファンというわけではない私もスッカリ周りと一緒に盛りあがっております。次のチュニジア戦もこの勢いでガンバレ!ニッポン!!

今年に入ってから、何人かの同僚が会社を辞めて行った。

その辞めた友人達とは今でも「元気~?」とか「次行く所見つかった?」などとメールで会話をしているわけだが、最近辞めた中の3人中2人は仕事を辞めたそばから、情緒が不安定になり、家にいても悲しくなってくるというのだ。

「家にいても母親がなんでもやってくれるから、私のいるところがない」「このまま仕事が見つからなかったらどうしようか、と思う」「毎日ずっと時間を食いつぶしてるだけだから、自分が廃人になってしまったようだ」

etc・・・。

思わず聞いていて「?」と思ってしまう。辞めてから1週間も経っていない。しかもせっかく今の会社とは違った場所や経験を求めて、新たな世界に飛び立とうという矢先なのに、ずいぶん淋しいことを言うんだなと思ってしまう。

“これからまた休みなく働かなくてはならないかもしれない”その期間に耐える事ができるよう、与えられた大切な休息時間なのに、と。

以前にも書いたと思うが、私は「長い人生、休み休み歩いたっていいだろう」という考えの持ち主だ。毎日気を張って、OLをやるのなんてまっぴらだ。時には昼夜逆転の生活をしてみたり、廃人のように一日何も考えず、黴が生えるような生活をしてみたっていいじゃないか。

今までの私は何度も会社を辞めてきたわけだが、次を見付けるまでの間というのが(たとえ次にやりたいことが決まってなかったとしても)好きだった。金の計算がヘタクソなせいか、とにかく底をつくまで遊んでしまう。

金があると、平日の夜、友達を誘い「今日はオールしちゃわない?」などと嫌がらせめいた発言をし、みんなに「自分勝手な奴だ」とけむたがられ、友達を失いそうになったことさえあるほどだ。

そんな私からすると、とにかく何が嫌でそんなに不安定になってしまうのだろう、と考えこんでしまう。

しかし、「淋しいから、会社帰りちょっとご飯でも食べない?」と声をかけられ、彼女らの現在の悩みとやらを聞いてみると、実は非常にマジメで超現実的であるということがわかってきた。

彼女らは頭がいいせいか、とにかく計算が好きだ。「働くんだったら、コレくらいはもらえないと・・・」とか「こういう福利厚生がきちんとしている所がいい」「あと何年働いてこれくらい貯めないと」-というように。

よく考えてみると、彼女達には“夢”というものがないのだと思う。うまく言えないが、私が言いたいのは、“将来の夢”ではなく、“想像上の夢”だ。

私が思うに想像上の夢というのは、時にあっけなく「現実」なってしまうくらいの、スケールがあるような気がするのだ。

私はそんな風に「夢」を持っていながら、それを「現実」にしてしまった人を何人か知っている。

その中の一人であるYちゃんという女の子はちょうど去年の今頃、うちの会社を辞めた。

彼女には夢があった。それは「エステティシャンになって、自分で開業する」という夢であり、その大きな夢を端で聞いていた私は「途方もない莫大な費用や、体力、知力、など色々なものが必要なんだろうなー」などと考え、そのスケールの大きさに圧倒された。

しかし、それから1年後の今現在、彼女はその夢物語を叶え、端からみたら、いとも簡単に見えるほどに、現実にしてしまったのだ。

もちろんそれは彼女の持ってうまれた天性の才覚みたいなものもあるだろうがそれだけとも言いきれない。

彼女はたぶん夢を見ていたのだ。現在に至るまでずっと。木枯らしの吹く夕方も炎天下の昼も、一人街頭に立ってビラを配った。それを取ってくれる人がいるまでずっとそうした。

でも彼女はそれを苦労だとは思わない。それは“夢”だったからだ。“夢”であることは人を現実とは別のところに立たせる。そう思う。

私はよく母に「きちんと現実を見なさい」などと言われた。そうしながら生きていくことが最良の方法だとする見方もある。しかし、私は敢えてそうする生き方を否定してみたいのだ。否定して、現実を逃れた時にまた別の何かが見えてくるような気がする。

ポッカリと空いた時間は神様がくれた宝物のようなものだ。“現実”を見過ぎて立ち止まってしまう人にほど“夢”を見ることを知ってほしい、と思う。

2002.06.14