[19]巣鴨と云う地域

第19回

■巣鴨と云う地域

山手線が上野方面から新宿方面へ走って居ます。「駒込」から「巣鴨」「大塚」と走りますが、此の三駅にまたがって「巣鴨村」があったようですが、此の三駅に走る山手線は道路より低く、掘り割りの様なところを走っています。

「巣鴨駅」を出ると線路は見えませんが、線路の右側は豊島区となっており、左側が小石川区でした。子供の世界は此の小石川に移ってから本格的に始まったと思います。遊びの地域を列挙すれば、次のようになります。

とげぬき地蔵』・・巣鴨駅を降りると中山道の直ぐに地蔵通りがあり、4?5分歩くと道の右側に「とげぬき地蔵」で有名な「高岩寺」があります。この道を通り過ぎると中山道に合流します。巣鴨駅の真ん前の中山道に面したところに「真性寺」と云うお寺がありました。江戸時代にはこのお寺を中心に門前町を形成し、この辺は大きく「巣鴨村」と云っていたようです。これが明治になってから色々と分割したり合併したりして名前が変わったりしたようです。

地蔵通りを行くと中山道に合流しますが、そこら辺りは「庚申塚」と云います。私達の頃は神保町からは東京市電が走って居ましたが、終点は板橋でした。この頃の市電の運賃は乗り継ぎなしの一路線は7銭でした。板橋から先は乗り合い自動車しかありませんでした。

料金は一路線5銭だったと思います。市電は「チンチン電車」と云っていました。「乗合自動車」は電車と同じように横に並んだ長椅子です。当時は巣鴨から先は道路が舗装されて居ませんでしたから、埃が大変で、オマケにでこぼこ道でしたから座席に座っていたら飛び上がっていました。電車も自動車も車掌が付いていて切符を買うのです。

とげ抜き地蔵通りの入り口の直ぐそばに「真性寺」と云う大きなお寺がありました。入り口に大きな露座の大仏がありました。大きさは3?4mくらいあったと思いますが、はっきりしたことは分かりません。お寺の入り口にあって、うつむき加減に入る人を睨みつけるように見えたので、びびって怖い感じで此のお寺の中で遊ぶと云うことはありませんでした。

「とげ抜き地蔵」は現代では「お年寄りの原宿」だなんて云われて居ますが、昔はお年寄りばかりの町ではなく、老いも若きも関係のない賑わった所でした。何しろ食べ物屋が軒を連ね、通りに「すがも館」と言う新興映画と裏側の中山道に面して「巣鴨松竹映画劇場」と云う松竹映画専門館があったのです。

この地域は子供の遊び場としては絶好の場所でした。なにしろ毎日毎日が縁日なんですから・・特に四の付く日は凄い混み合い方で、お寺の入り口に大きな線香の濯器があるのですが、濛々たる煙で廻りがよく見えないような状態でした。その煙を老いも若きも体中になすり付けているんです。そして此の炉の奥の左側に「地蔵尊」が立っています。あまり大きくありませんが、参詣者がこぞって洗っているんです。何か御利益があるのでしようか?

此の通りには食べ物屋が軒を連ねていました。子供の我々は食堂には入れませんから、専ら買い食いです。親には内緒でね。一番好きだったのは「今川焼き」でしょうか?神田の今川焼きは皮が茶色で形は丸くて同じですが、厚さも薄いけど、此の巣鴨のは皮が薄く、中の餡が透けて見える位で色が白いのです。まるで「きんつば」の様です。値段は1個1銭5厘であまり変わりません。此の当時の値段は大福が10銭で6個くらいでしたからあまり変わりません。「鯛焼き」にしても大抵道路端で焼きながら売っています。そして新聞紙を切った袋に入れてくれます。

いつでも良い匂いをさせているのが、お寺のすぐ横に店を出して団扇でパタパタと扇いで焼いている「ヤツメウナギ」です。だけど人は何時でも群がって立ち食いしていましたが、これは高くて手が届きませんでした。考えて見ますとこの年になってまだ一度も食べた事がないことに気が付きました。「ヤツメウナギ」は眼にいいそうですねぇ。

後は「せんべい」10枚で1銭とか人形焼き5個1銭とか,かるめ焼き一回1銭・・これはザラメを煮詰めたら濡れ雑巾の上に銅鍋を置いて、素早くかき棒に重曹を付けてかき回すと膨らんで来てかるめ焼きが出来るんです。これは作る技術が必要なので子供達は夢中で作ったものです。

あとはべっこう飴とかどんどん焼きとか、金太郎アメとか、飴細工などでした。此の飴細工は正に職人芸で、なんでも飴で作って仕舞うんです。鳥なんかは見事の出来映えで、何時までも見ていても飽きませんでした。大抵ラムネ1本と焼きそば5銭も食べればお腹が一杯になって仕舞います。
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