[106]昭和天皇の苦悩

第106回

■昭和天皇の苦悩

此の張作霖爆殺事件の時の内閣総理大臣は陸軍大将田中義一でした。田中義一は元治元年6月22日生まれで当時64才。此の事件の真相は本人始め政府高官は全部知っていました。それで田中首相は事件関係者の厳罰を昭和天皇に約束しました。しかし陸軍に脅された首相は「日本軍は犯行には無関係、唯警備上に手落ちがあったことは認めるのでそれで関係者を処分する」と云った報告を昭和天皇に上奏して、昭和天皇の不興を買って退陣に追い込まれてしまいました。

そればかりではありません。田中首相の昭和天皇への報告が二転三転するのはこの時が初めてではなく、既に政府高官の人事に関して昭和天皇にいい加減な報告をしたり、さらには昭和天皇を自らの政略に利用するような行動もありました。

水野文部大臣の辞任の意思を無視して、昭和天皇に文相留任と報告してしまい、昭和天皇から自分の留任について知らされた水野は腹をくくって辞任を撤回、これが田中首相は不臣であると大問題になりました。

更に皇族の久邇宮が台湾でノイローゼの男に襲撃され、間一髪無事であったと云う事件の責任を取って上山台湾総督が田中首相に預けた辞表を、田中首相は昭和天皇に渡そうとしたのですが、昭和天皇は辞職には及ばないとして受け取らなかったといいます。

田中首相は此の昭和天皇の言葉を上山総督に伝えず、勝手に再び昭和天皇のところに出向いて総督の辞表を提出、昭和天皇はてっきり自分の慰留の言葉にも上山総督の辞職の決意は変わらなかったのかと思って辞表を受けてしまいました。上山総督は自分が昭和天皇に慰留されたことを全く知らなかったことから、またもや田中首相は不臣と大騒ぎになりました。

こうしたことが伏線となって、遂に満州張作霖爆殺事件の田中首相の処理のいい加減さに、これまで田中首相の誠意のない態度を我慢して来た昭和天皇の怒りは爆発したのです。田中首相と云う男は相当に無神経な男であったと思われます。

一方で昭和天皇も天皇になったばかりで、まだ年も若い時なので、どう云う天皇像で振る舞うかとあれこれ考えるところも多かったし悩みもしたことと思います。田中首相のぶしつけな言動を若い真面目な昭和天皇がどう感じたかは憶測の域を出ませんが、子供扱いされたと気負い立って田中首相に直に怒りを示したと云う事もあるかも知れません。

昭和天皇の父の大正天皇は宮内省から「脳病」と全国民に告知され、印鑑を侍従長が持ち去ってしまうなどと、昭和天皇の祖父で英邁とされた明治天皇の扱いとは雲泥の差とも云える仕打ちを受けていました。そうした不遇な大正天皇を取り巻く非情とも云える政府関係者の姿を目の当たりにしていた昭和天皇が、田中首相の言動に不信の念を激しく感じたであろう事は推察出来ます。

なお昭和天皇の怒りに触れた田中首相は涙を浮かべて退出し、そのまま昭和4年7月2日に首相を辞職し、同年9月29日に死去しました。享年65才でした。田中の急死はその直前に政権時の閣僚の逮捕など政友会の汚職の広がりもあったりしたので、自殺説まで噂されたと云います。

自分の率直な意思表示が首相とは云え一人の老人をこれほどまでに打ちのめしたのかと、昭和天皇は大きな衝撃を受けられ、その後は「貝」になることを誓ったのです。即ちこれからは政治には一切口出しはしないと固く誓ったのでした。

それ以来、政府軍部の独走が始まり、支那事変から大平洋戦争へと突き進んでしまったのです。その間天皇は印を押すだけの人となりましたが、昭和20年の終戦の詔勅は天皇自ら録音されて、多くの日本国民を救ったのです。

私は昭和天皇に戦中戦後にも一度も拝謁したことはありませんが、戦前に白馬にまたがった軍服姿の天皇は威厳があって近寄りがたい雰囲気がありました。戦後は国民の前にお見えになることも屡々あったようですが、国民の前では帽子を掴んで手を挙げて会釈すると云う、やはり何となく威厳がありましたね。

昭和64年に87才でお亡くなりになりましたが、私の印象では笑顔は拝見しなかったように思います。昭和と云う難しい時代を良く長く生きて来られたと思いますね。

飯田昭一

参考資料:誰か昭和を想わざる

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