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[128]小唄勝太郎(こうたかつたろう)昭和8年

第128回

■小唄勝太郎(こうたかつたろう)昭和8年

「小唄勝太郎」は新潟県の出身で、明治37年11月6日生まれ、本名「真野かつ」で夫は軍医の真野鐐一、旧姓は佐藤かつ、と云いました。

彼女は幼い頃から美声で知られていましたが、昭和4年に上京し、日本橋葭町から芸者に出ていましたが、お座敷で唄ってスカウトされ、昭和5年にオデオンレコードで初の吹き込みをしました。そして翌年の昭和6年にビクター専属になったのです。

そして芸者で生活していた頃、ラジオに出て「佐渡おけさ」を唄ったのが見いだされた切っ掛けだったそうです。

「勝太郎」と云う名前は、小さい頃は男かと思っていました。私の父は此の「勝太郎」と年代が同じであったせいか、大のフアンであったようです。オマケに芸者上がりであったこともあったと思いますが、家にはレコードケースの付いたBOX型の蓄音機がありましたが、レコードは外国の音楽ばかりで100枚くらいありましたが、邦楽はこの「勝太郎」のレコードが数枚あっただけでした。

一杯飲むと必ず「勝太郎」のレコードを掛けるのですが、いつも蓄音機のゼンマイを巻く役が私でした。これが小さな子には意外と大変だったのです。何しろ背丈くらいの大きい蓄音機の横にある穴にゼンマイを巻くハンドルを入れて回す訳ですが、すごく固くて両手でハンドルをやっと回すのです。

昭和8年に「島の娘」が大ヒットして彼女は一躍スターとなりました。此のレコードが出た頃でしょう、父がフアンになったのは、私が6歳の頃で父は32歳の頃ですから・・・

  「島の娘」

  ♪ ハア 島で育てば     娘十六恋ごころ     人目しのんで     主とひと夜の仇情  ♪

此の唄は#3まであります。此の「勝太郎」の唄は、ハア?で始まるハア?小唄としてもてはやされ"うぐいす芸者"の黄金時代を築きました。
そして同年に「大島おけさ」と続いて「佐渡を想えば」そして「東京音頭」となったのです。此の「東京音頭」は昭和8年に唄われたものですが、あれから70数年経った今でも夏になると何処からか盆踊りでレコードが掛かっているのが聞こえると云う・・・凄さです。

  「東京音頭」昭和8年

  ♪ ハア 踊り踊るなら チョイト     東京音頭 ヨイヨイ     花の都の 花の都の真ん中で     サテ ヤートナソレヨイヨイヨイ     ヤートナソレヨイヨイヨイ    ♪

此の唄は#5まであります。そして翌年の昭和9年にまたまた大ヒットを飛ばしました。それが「さくら音頭」です。

「さくら音頭」昭和9年

  ♪ ハア     咲いた咲いたよ アリャサ     弥生の空にヤットサノサ     アリャヤットサノサ     さくらパット咲いた     咲いた咲いた咲いたパッと咲いた     大和心の エー     大和ごころの八重一重 ソレ     シャン シャン シャンときて     シャンとおどれ       ♪

此の唄は#3までありますが、世の中がドンヨリとした空気が漂って居た時代ですから、一般の庶民はこう云う唄に飛びつきました。しかし、彼女は大の信心家でもあったようで、仏滅や三隣亡の日には絶対にレコードの吹き込みもしなかったようです。

昭和13年3月頃には大毎・東日芸術慰問団で中國華北にも慰問に行っており、野戦病院や上海陸戦隊や四行倉庫などにも訪問しています。その他の唄では「勝太郎くずし」昭和11年、「勝太郎子守唄」昭和11年、「明日はお立ちか」昭和17年、と続きます。

昭和25年には海外巡演の旅に出かけ、アメリカやブラジルで公演して"和服使節"の役目を果たしました。家庭生活に於いては、「茶碗蒸し」が得意の姉さん女房でした。そして戦後は後進の指導に当たりましたが、昭和49年6月21日に亡くなりました。享年69歳でした。


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