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[154]昭和の歌「美ち奴」エピソード

第154回

■昭和の歌「美ち奴」エピソード

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しかし、昭和12年には日支事変が起きましたので、此の「美ち奴」の代表曲であったコミカルな「ああそれなのに」は軍部から不謹慎とされて発売禁止となってしまいました。その後も「そんなの嫌い」とか「道行シャンソン」などのヒットは出していましたが、「軍国の母」は戦時歌謡の大ヒットの第一号になったそうです。

そして昭和13年には「霧の四馬路」がヒット、続いて「吉良の仁吉」「街道石松ぶし」「次郎長ぶし」「シャンラン節」などをヒットさせ、又、日活映画にも「花見音頭」「ジャズ忠臣蔵」などに出演し、懇意になったマキノ正博監督の「弥次喜多道中記」「清水港「続・清水港」などに出演し、昭和17年には「歌う狸御殿」戦後の昭和25年には「蛇姫道中」など多数の日活・大映作品に登場しています。

此の「美ち奴」のエビソードには戦時中に「楠木繁夫」と中國に慰問に行ったとき、日本軍の兵士が最前線のクリークに身を潜めているときに、彼女は涙ながらに無線電話で慰問したと云います。昭和18年には故郷の北海道からわざわざ呼び寄せて浅草に住まわせていましたが、昭和20年の東京大空襲のときにいっぺんに両親を失ってしまいました。

こういう悲劇にもめげず、女剣劇の中野弘子と共に活動の拠点を京都に移していましたが、恋仲であった楠木繁夫が三原純子と結婚してしまったこともあって、此の悲劇を振り払うかのように、中野弘子と共に慰問や、全国興行に専念したと云います。
もし、楠木繁夫か美ち奴と夫婦になっていたら・・楠木繁夫の自殺はなかったかも知れないと・・・勝手な考えですが・・・

戦後は取り立ててのヒットはありませんでしたが、昭和25年に九州の民謡としてヒットしていた「炭坑節」が、レコード各社で競作されて、「美ち奴」テイチク盤だけが「三池炭坑の上に出た」と歌われたそうです。

あれから60数年経った今でも、夏の盆踊りのときには「美ち奴」の歌う「月が出た出た・・三池炭坑の上に出た・・」と云う歌を皆さんも聴かれたと思いますね。此の唄は本当に息の長い大ヒット曲ですね。

その後の「美ち奴」は同じテイチクの新人歌手・真木不二夫と恋仲になりましたが、彼には妻子が居たようですが、同棲してしまいましたが、彼の度重なる浮気で、彼女は自律神経失調症になって昭和32年に6年間の同棲生活に終止符を打ったと云います。そして生活のために芸名を「駒奴」と改めて又お座敷に出たそうですが、43歳と云う年齢もあって往年の人気はありませんでした。

そして浅草のアパートで一人暮らしをして自律神経失調症と闘っていましたが、それを知った「中野弘子」は隣室に引っ越しして「美ち奴」を支えたと云います。

昭和40年代には東京12チャンネルで「なつかしの歌声」で、その衰えぬ美声を披露したそうですが、病気の再発は繰り返して起きていたため、昭和53年頃を最後にテレビ出演も出来なくなり、その頃のNHKラジオ「昭和歌謡大全集」に出演したのが「美ち奴」としての最後の放送になりました。

そして都内の病院を転々として療養を続けていましたが、昭和58年に東京都江東区の特別養護老人ホーム「むつみ園」に入所しましたが、後に中野弘子も入所したそうです。所内の演芸会などでは変わらぬ美声を披露していたそうですが、身寄りが無いながらも穏やかな晩年を過ごしたそうです。

しかし、平成8年5月29日に大腸癌のために、親友の中野弘子に看取られながら、波乱に富んだ生涯を閉じました。享年78歳でした。そして「中野弘子」も「美ち奴」の49日を執り行った後に、後を追うかのように、この世を去りました。

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