[120]二・二六事件(2)

第120回

■二・二六事件(2)

此の文書は2月22日に野中四郎大尉が執筆して、24日に東京中野の北一輝宅で村中孝次元陸軍大尉が修正して、事件当日に陸軍省官邸で香田清貞が川島義之陸軍大臣の前で「陸軍大臣要望事項」とともに読み上げました。

此の「陸軍大臣要望事項」は八項目の要望事項が書かれていました。此の事件は昭和天皇の「これは叛乱である」とのお言葉で直ちにつぎのような「緊急勅令」が出されました。

緊急勅令

朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝国憲法第八条第一項ニ依リ一定ノ地域ニ戒厳令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム
御名御璽
昭和十一年二月二十七日

此の勅令によって、東京市内は戒厳令に七月十八日まで入り、野中大尉以下の蜂起した部隊はすべて反乱軍になってしまいました。

臨変参命第三号
戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムヘシ
         奉勅
参謀総長   載仁親王

奉勅命令とは、天皇が直接下す命令であって、28日午前5時8分に原隊に戻らないと逆賊になると言う此の命令が下ったが叛乱将校達には届かなかったと云います。

戒作命第十四号
命令(二月二十八日午後十一時 於戒厳司令部)

二、叛乱部隊ハ遂ニ大命ニ服セズ、依テ断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス
戒厳司令官  香椎浩平

これが討伐命令でした。
この後に戒厳司令官香椎中将は、上官の命に従った兵士達に次のような文書を撒いて原隊に復帰するように求めました。

下士官兵に告ぐ

一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ

二月二十九日  戒 厳 司 令 部

これは戒厳司令部が撒いたビラですが、ラジオでも中村茂アナウンサーが、「兵に告ぐ、今からでも遅くないから原隊へ帰れ。そうすれば許される」と云う感涙窮まるアナウンスを流しました。「今からでも遅くない」は当時の流行語になりました。

此の事件はこれで終結を見ましたが、昭和十一年七月十五日号の「国際写真新聞」と云う週刊誌に写真入りで次の記事が載っています。
「国法の尊厳厳として存す!!」「二・二六事件断罪」「叛乱将校等十七名に死刑の判決下る」との見出しで次のように書かれています。

(東京)全国を震撼せしめた二・二六事件の断罪は遂に下り、事件の中心たる元将校十七名に対しては厳然国法の命ずるところにより死刑の判決が下された。これら被告の憂国の至情には一片の同情なきを得ないが、大命なくして皇軍を動かし、叛乱行為に出た罪は重大、この峻厳の判決も又当然の事と云わねばなるまい。又おそらく被告等も、今は静かに自らの罪を省みて心静かに最後の日を待ってゐることであらう。しかし、これら被告を父とし、夫とし、或いは子とする家族等の心中はいかばかりであらう。

「写真は判決発表当日の被告家族」・・として次の写真が載っています。
1.首魁 安藤元大尉の実父
2.首魁 栗原元中尉の実父勇氏とかつ子夫人
3.坂井元中尉の実父坂井兵吉少将
4.左中島元中尉の実父

以上のように写真が掲載されていますが、此の親たちは何を考えていたのでしょうか?私の生涯に於いて世の中の争乱は度々ありましたが、戒厳令が敷かれたことは此の事件の時だけです。

しかし「皇道派」が破れ「統制派」が勝ったことが、これからの日本の国民が幸せになったのでしょうか?・・翌年には支那事変が起こり、そして大平洋戦争に突入してしまいます。国民の苦難はここから始まったと云えるでしょう。
此の騒動も考えて見れば軍部の「派閥争い」や「権力闘争」であって国民不在の出来事ではなかったでしょうか?

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