[164]大相撲見物

第164回

■大相撲見物

「大相撲見物」と云っても、そういつも見物に行かれるものではありません。一度も親に連れて行って貰ったことはありません。当時の大相撲は一年に二場所しか開催されず、それに一場所13日間です。此の相撲の開催場所には、学校のお休みの時には、がぁがぁーとうるさい並四球のラジオにしがみつくようにJOAKの実況放送を聞いて、勝ち負けをメモすると云うのが日課でした。

明化小学校の同級生に「佐藤」と云うのがいました。家も近かったせいもありますが、学校が終わるといつも遊びに来ては相撲の話でした。彼の家にも遊びに行ったことがありましたが、いつも両親にあったことがありませんでした。いるのは何時もお婆さんだけでした。両親はいなかったようです。

ある時此の友達が相撲を見に行こうと云ったんです。「ええー」っとビックリしました。幾ら掛かるのかお金もないし・・と云ったら、「金なんていらないよ」って云うんです。でも相撲は見たいから付いて行ったんです。省線に乗って両国で降りたんです。すぐ前に両国の国技館がありました。屋根の丸い大きな建物です。どうして見るのかな・・と思っていたら裏の方に回ると、大きなカーテンで仕切ったところがあったんです。そしたら「佐藤」が後ろ向きにそのカーテンから入ろうとしました。

すると法被(はっぴ)姿のおじさんが「おい、坊やそんなところから出ちゃダメだ・入って入って」と却って場内に押し込められてしまったのです。まんまと只で入場出来たと云う訳です。

中に入ったはいいけど、自分の指定席はありませんから、土俵に通じる通路で、一番土俵に近いところに陣取って見物としました。初めて見た相撲の迫力にビックリしましたね。並の人間より大きな力士がぶつかり合い、投げ合うのですからね。

一階は桟敷席で六七人の人達が、飲みながら、弁当か仕出しのものをつっきながらの見物です。見上げれば丸い大天井ですが、三階までありました。そして周りには優勝力士の大きな額がずらりと掲げられていました。

昭和13年頃の両国国技館の相撲は春・夏の一年で二場所しか開催されませんでしたから、優勝力士も1年に二人ですから優勝掲額も少ないわけで、此の国技館が出来たのが明治40年ですから、ここで優勝した力士は最初から見ることが出来た訳です。

ですから一番古いのは明治42年に優勝した平幕の「高見山酉之助」で、明治43年は、横綱「常陸山谷右衛門」と大関「太刀山峰右衛門」、明治44年春は大関「太刀山峰右衛門」で夏は横綱「太刀山峰右衛門」・・というように昭和13年まで68枚の優勝掲額がずらりと二周に渡って掲げられていました。そして土俵には今と同じく櫓がありましたが、違うのは四本柱があったことです。座る場所によっては、柱の影になることもあって、見づらい事もあったようです。

僕らは子供ですから、まして自分の指定席もないわけですから、花道の土俵の直ぐそばで、隅っこのところで小さくなって見ていました。誰も何にも云いませんでした。ここを「砂かぶり」と云うんです。

法被姿の「呼び出し」が、土俵に上がって、扇子を広げ、美声で力士の呼び出しをするのですが、これも行司と同じように「位」があるようで、中入りからだんだんと「位」が高くなって、さすがに通る声で綺麗でした。名調子は呼び出し「小鐵」と云いましたかね?

又一番最後の取り組みには「木村庄之助」の「番数も取り進みましたるところ、方や鏡岩、方や双葉山、此の一番を以て本日の打ち止め」と云うセリフは現代までも変わりませんね。唯、違うのは当時は「横綱双葉山」が連勝中であったため、どうせ勝つに決まっている・・と言う見物人が多かったせいで、桟敷席のお客さんは見ないでぞろぞろと帰ってしまう始末でした。何しろ此の「双葉山」は昭和11年夏場所から連戦連勝の記録を作っていた最中の時でしたからね。

当時の力士はやはり子供達の人気は「横綱」でしょうね。現役は「第32代横綱 玉錦三右衛門」「第33代横綱 武蔵山 武」「第34代横綱 男女ノ川登三」「第35代横綱 双葉山定次」の四横綱でした。此の横綱のことに関しては、又項を改めて書きたいと思います。

国技館で相撲をタダで見物した後で、力士達が出てくる出口で待っていると、浴衣がけの力士が続々と出てきました。みんな大きいのでビックリしました。中でも「出羽ヶ嶽」・・背が高くて腹は出ていませんが、40貫もある巨漢です。此の「出羽ヶ嶽」は人気者で、出てくると女性ファンが黄色い声で「文ちゃん」と声を掛けていました。当時の相撲取りは40貫と云えば、一番大きく重い力士であったと思いますが、40貫は現在では150Kgぐらいですから、あまり大きいとは云えませんね。

又「磐石」と云う力士は、凄い太鼓腹で、自分の子供ですかね、軽々と抱いて歩いて来ました。何しろ初めて見たわけですからビックリ仰天の連続でした。家に帰っても親には内緒でしたよ・・・。


[163]子供相撲対抗試合

第163回

■子供相撲対抗試合

子供相撲では、一年に一回は他校と対校相撲大会がありました。より抜かれた各校の六年生です。各校10人くらい出ていました。場所は「明化小学校」の直ぐそばに、後に横綱審議会の会長になられた「酒井忠正伯爵」のお屋敷があり、その庭に本格的な土俵があったんです。その土俵が対校試合の場所に使われました。

対校試合ですから、各校の名誉がかかっているわけですから、負ける訳にはいきませんね。選手はみんな真剣です。勝負は各校10名づつの勝ち抜き戦です。参加校は四校です。勝ち抜きですから、勝った選手は続けて何人とも戦わなくてはなりません。勝ってもせいぜい三人くらいですね。10人全部負けた学校はそれで終わりです。

明化小学校も勿論出場します。六年生120名の中で10名選ばれるのですが、私も入っていました。当日は各校から応援団が来て、大変な賑やかさです。来賓には政界からも来ていたようですが、ハッキリとは分かりませんが、大相撲の立浪部屋からは、横綱双葉山、大関羽黒山、関脇名寄岩の三人が来ていました。立浪三羽烏・・さすがに大きいですね。

出場選手は「電信柱」と云われた背の高い者も、極端に小さい「チビ」も「百貫デブ」と云われた肥満児もいません。これらは却って相撲は弱いのです。選手に選ばれた私達は、ずいぶん緊張もしたし、張り切ってもいました。私は母の作ってくれた「帯芯」の「褌」(まわし)を締めて勿論出ましたよ。でも結果は思わしくありませんでした。

私は三番目に出ましたが、相手の一人には勝ちましたが、二人目との勝負で、土俵の俵のところで同時に倒れたときに、俵に左の横腹を嫌と云うほど打ち付けて、暫く立ち上がれない程の痛さでした。結局負けになりました。・・・ついに明化小学校は優勝できませんでした。

全部終わったところで、大相撲の双葉山、羽黒山、名寄岩が代わる代わる土俵に上がって、子供達が一斉に飛びかかる相手をしてくれましたが、びくとも動きません。さすがに大相撲の力士だと思いましたね。


[162]相撲で歯を折る

第162回

■相撲で歯を折る

子供相撲の時ではありませんが、放課後の学校の校庭で同級生と相撲を取ったときです。コンクリートの運動場の片隅で何人かと相撲を取っていたのですが、この時「山田君」と取った時です。初めてだったのですが、あまり大きくない相手だったのですが、こいつは凄く強かったです。なかなか勝負は付かなかったのですが、相手の「上手投げ」を食らって同時に倒れました。

その時、倒れ方が悪かったのですね、受け身をやっていましたから、倒れる時も手を突きません。手を突くと腕が折れてしまうからです。・・なんと顔を正面からコンクリートにぶつけてしまったのです。・・そうして「前歯」を二本折ってしまいました。もの凄く痛く、口を押さえて便所に駆け込んで、口を押さえました。唇は切れて血で真っ赤です。誰もいませんでした。自分一人で暫く佇んでいました。

一時間くらい経ったでしょう、校庭にはもう誰もいませんでした。仕方なく家に帰りましたが、母は私の顔を見て「どうしたの、其の顔は」と聞いて来ましたが「転んだんだ」と云ったら「そうかい」で終わりです。

次の日には唇の腫れは引きましたので、知らん顔して学校に行きましたが、友達も先生も何も云いませんでした。二三日経って母が「みっともないから、歯医者に行っておいで」と云いましたので、丁度家の斜向かいに「桑原歯科医院」と云うのがあって、そこに行ったら「どうして前歯なんか折ったの」と聞かれたけど、何も答えませんでした。

そして「差し歯」を作るからと云って、歯形をとって「一週間経ったら又お出で」とその日は帰りました。そして一週間後に差し歯が出来て、前のように変わらない歯になったのです。少し筋が入りましたけどね。当時はプラスチックなんかない時代ですから多分象牙だったと思いますよ。費用は幾ら掛かったか知りません。母が払ったのですから・・。


[161]子供相撲

第161回

■子供相撲

相撲にはプロの大相撲もあれば、子供相撲も盛んでした。大相撲は見る相撲でしたが、子供相撲は自分で取る相撲ですから、これには夢中になりました。

この当時の小石川の住宅地には、あちこちに空き地が沢山ありました。ですから夏休み頃になると、其の空き地に町内会で土俵を作って、子供相撲が毎晩行われるのです。大体子供相撲は中学一年生くらいの年までで、それ以上は大人の相撲になりました。ですから子供相撲には中学生以下であれば年齢制限はなかったのです。

相撲を取るには大抵「六尺」(晒しのふんどし)ですが、私は母にねだって、帯芯で「褌」(まわし)を作って貰いました。子供にしては本格的でしたよ。物資のないころで母が自分の帯をほどいて、芯に使っていた物で作ってくれたのですから、相撲には負けるわけにはいきません。

私は「電信柱」(背の高い奴)じゃありませんでしたが、足腰が強かった上に、近くにあった「理化学研究所」の相撲部に暇があれば通って「受け身」の練習はしていました。相撲は取らしてくれませんでしたけど「四股」とか「鉄砲」とか倒れた時に骨折しないように「受け身」の練習です。これから何年も相撲はしてきましたが、一度も骨折はしたことがありませんでした。

町内の子供相撲は大抵夜で、裸電球が何個か付いていましたが暗かったです。6時くらいから始まりますが、一年生から三年生くらいのチビッ子力士から始まります。勝てばお菓子を貰えます。だんだん大きくなって、五年生、六年生、中学一年生、二年生と進んで行きますが、この辺になると区別はありません。

覚えていることは、一年生、二年生くらいのチビッ子が束になって掛かってくる、5人抜き、10人抜きの相撲です。何人掛かってきても、こちらは負けませんが、怪我をさせないように取ることが難しいのです。土俵は盛り土をした高い本格的のものですから、投げ飛ばすと土俵の下に転がってしまい、「受け身」が出来ていませんと、直ぐに骨折してしまいます。

毎晩此の子供相撲は楽しくて、いつも必ず出ていました。一回も負けたことがありませんでした。あるとき学校は違いますが同じ六年生の「多田君」と云う、私の仲良しの友達と取っていたのですが、彼もなかなか強かったのですが、私の投げに土俵下に落ちたときに怪我をしてしまいました。町内の役員が彼を立たせて、両腕を上に上げようとしましたが、腕が上がらないのです。直ぐに接骨院に連れて行きましたが、「鎖骨」が折れていました。しばらくは腕を釣っていましたが、友達としては仲違いはしませんでした。

此の子供相撲は、「大月」「中村」「多田」と私の四人の天下でした。皆同じくらいの年でしたが、学校はそれぞれ違っていました。薄暗い裸電球のついた土俵でしたが、ふと見ると父親がそっとのぞきに来ていたこともあったようです。

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[160]母校・明化尋常小学校

第160回

■母校・明化尋常小学校

私は前にも少し書きましたが、生まれは東京日本橋ですから、幼稚園と小学校は日本橋の「十思尋常小学校」に入学し、昭和10年三年生の一学期限りで、小石川に移りましたので、三年生の二学期から此の「明化尋常小学校」に転校して来ました。

此の学校の校舎は鉄筋三階建てで、運動場も広く、その端に大きな1本の「欅」の木が立っていました。明るい日差しの中で木の葉がゆらゆらと動いていました。ここで此の「明化尋常小学校の校歌」を記して置きたいと思います。創立以来校歌はあったと思うのですが、ここに書き留めた校歌は「昭和5年 武島又次郎作詞、田村虎蔵作曲」とあるもので、比較的新しいものですね。この間贈られた「創立130年誌」には昭和5年までは特別「校歌」はなかったようなことが書かれていますけどね。

  (1)♪ 緑しげれる 樹々の丘
      歴史久しき わが校の
      雄姿を日ごと あおぐにも
      学ぶわれらの ほこらるる ♪

(2)♪ いざいざ共に 励みつつ
      絶えぬ努力に すすみなん
      たぐいすくなき 日の本の
      明るき文化 築くべく    ♪


先日明化小学校宛に、私達の卒業写真を送って、同窓生達の卒業名簿があったら欲しい・・と云ったのですが、現在の校長先生から丁重な返事を頂きました。一生懸命に探してくれたと思いますが、何しろ69年前のことですから、当時の卒業生だと云う名簿の断片を送って下さったのですが、50名ほどの名前には男は2名しかおらず、後は殆ど女性でした。

当時は学校には一組、二組が男子で、三組、四組が女子でしたが、男と女の交流は殆どありませんでしたから、全然知りません。何しろ「男女七歳にして席を同じゅうせず」と云う時代ですからね。

明化尋常小学校の歴史は古く、恐らく東京で一番古いのではないかと思います。先日の現在の校長先生からお手紙と一緒に、3年前に創立130年記念の小冊子を頂きましたが、その中には色々な当時の写真などが載っていましたが、先ほど書きました校庭にあった大きな「欅」は今はないそうです。その代わり「楠木」があるそうです。そしてそこには「欅」の木で作った断片の写真が載っていました。なんか淋しい気がしますね。あんなに大きな「欅」が枯れてしまったなんて・・・

しかし130年もの長い間には、沢山の卒業生がいたはずですが、たしか戦災にも遭わなかったようなので卒業生の名簿と云う記録は残っていないのですかね?又その時に昭和14年の卒業写真も送りましたが、どうしたのですかね?・・もう古い話ですからね。また今の校長先生と云ったって、私の子供くらいの年齢でしょうからね。

創立は明治7年8月で、小石川区原町の浄土寺と云うお寺で、教員3名、児童20名、教室1で「明化学校」として始まったらしいです。そしてその後に竹早町だの大塚窪町に移転したり、後には徳川の屋敷跡を譲り受けて小石川区林町に移ったと云います。その間、東京府小石川区立明化小学校となり、そして明治12年に東京市小石川区立明化小学校となり、そして明治24年に東京市小石川区尋常高等小学校となったようです。

どうして此の学校は「明化」と名付けたのでしょうか? 近隣の後述した小学校は、すべて町の名前が付いていますのに、なぜ「明化」なのでしょうか?・・これは私の勝手な想像で、特別の根拠がある訳ではありませんが、明治維新から当時は「文明開化」と盛んに云われていた時代ですね? ですから「文明開化」から「明化」と誰か分かりませんが、付けたのではないかと私の想像です。この辺には「明化」と云う地名もありませんし、特別の意味もなさそうですしね。

最初20名足らずで、男子生徒17名、女子生徒3名で発足した学校でしたが、年々生徒が増えて収納出来なくなったので、近隣に沢山の小学校を創って生徒を移したと云います。私が入ったときにも、生徒数は2000人位いたと思いますよ。何しろお昼休みなんか、運動場は一杯でしたもの・・。

分校と云う形で出来た小学校を記しますと、駕籠町小学校、本郷小学校、柳町小学校、指ヶ谷小学校、林町小学校、などですが、常にこれらの学校と対校試合がありました。たとえば「相撲」とか「習字」とか「絵」とかです。六年生になると、これらの選手になって出場しなければなりません。

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[159]特別警備隊‥昭和13年

第159回

■特別警備隊

昭和13年は前年に「支那事変」が起こりましたので、徐々に戦時体制になって来ました。

「とんとんとんからりと隣組」だの、お母さん達は「愛国婦人会」だの「国防婦人会」だのの仕事が増えて行きました。・・又「出征兵士を送る会」だの、社会の様子が変わって来ました。

私らも、六年生になったので「特別警備隊」と云う組織を学校の内部で出来ました。女子生徒は除いて男子生徒だけで組織しました。6人一組で編成しましたから、六年生の男子生徒は120名居ましたので20組出来た訳です。一組、休みなしの1週間交代で任務に就きます。そして学校の先生が1週間に一人づつ交代で担当します。云ってみればこれは子供の「自警団」のようなものです。

6人一組で構成したのですが、その中で隊長1名、副隊長1名作ります。全部で20組ですから、20週間経てば又任務に就くわけですが、その時は隊長、副隊長は交代します。

その週の担当は、白い襷がけの紐に、隊長は真っ赤な毛糸の房の付いた物で、副隊長は緑の房で、隊員は白の房です。

此の襷は、それなりの権威があったようで、学校の生徒ばかりではなく、一般の人達も「ご苦労さん」と声を掛けてくれました。勤務は朝6時から夜8時までですから、相当きついですが授業があるときでも、教室で襷がけでした。

授業が終わった後は、町中の見回りをして、生徒がいたづらしていないかとか、こそ泥が入っていないかとか、何しろ子供にとっては大変な仕事でした。襷を外して手に持って、それを振り回しているだけで、それなりの効果があったようで、下級生などは、見るなりびびっている様子でした。

とにかく、人の迷惑になるようなことは、絶対ダメ・・と云うことです。
今は万引きなんか盛んなようですが、昔はとんでもないことで、警察沙汰ですよ。昔は八字髭を生やして、サーベルを下げていたお巡りさんでしたからね。怖い存在でした。

1週間の任務が終わったときは、担当の先生の前で、次の任務に就く生徒に申し送りと「襷」を渡します。見回りして気が付いたことは、チャンと申し送りをしなければなりません。こうして連帯感と連帯責任と云うものが、作られて行くんですね。

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[158]とうとう小学六年生です・・昭和13年

第158回

■とうとう小学六年生です・・昭和13年

この年昭和13年4月1日に、明化尋常小学校の六年生・・つまり最上級生になったんです。3月25日に上級生を送り出して、今度は自分が一番上になったんです。

この時代は学校ばかりではなく、日常すべての事に目上の人には従わなくてはならないと云う風潮がありました。ですから上級生に「しごかれる」こともあったんです。だけどそれは社会に対して非常識な行為があったときに「注意」されるだけです。

「三歩下がって師の影を踏まず」・・こう云う言葉があったことを知っていますか? 自分に教えてくれる先生の影も踏まない・・と云う尊敬の言葉です。これは何も先生に対してだけの言葉ではありません。社会すべてに共通していた言葉です。

ですから、外でいたずらなんかすると、何処の誰か分からないおばさんやおじさんから、怒鳴られることもあるんです。怒鳴られたら、絶対に反抗しません。素直に「ごめんなさい」と謝って反省するんです。それが当時の子供達でした。

電車に乗ったり、乗合自動車に乗っても、幼児は別にしても、少年少女は絶対に座席に座りません。座席が空いていてもです。又、幼児を連れたお母さんは、子供が窓に向いて座るのは、今も昔は変わりませんが、隣の人に泥が付いてはいけないので、必ず靴を脱がせます。それが現代ではなくなってしまった社会に生きるための「常識」だったのです。

六年生になったと思えば、自ずからそう云う意識が起きますから、下級生に対しても、優しく面倒を見る・・と云う気持ちが沸きますね。私らは何しろ兄弟が8人も居たのですから、年が二つづつ離れていましたから、私が六年生になれば、直ぐ下の妹が四年生、そして其の下の妹が二年生と云う具合で、常に三人は同じ学校に通っていた訳です。

ですから、私の同級生も同じで、妹同士も又同じ兄貴が居たりして、お互いに兄弟同士の交流もありました。ずいぶん兄妹が家に遊びに来ていましたよ。これは良いことだと思いますね。友達の妹が私の事を「お兄ちゃん」と呼んで、「お兄ちゃんボタン取れているから私が付けてあげるから、針と糸を貸して」なんて云ってくれたりしてましたよ。

そんな可愛い子たちが、今どこで何をしているかな?・・と思いますね。もう80歳近いお婆さんになっているだろう・・とは思いますが、何年経っても思い浮かべる姿は当時のものですね。

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