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      <title>昭和一桁生まれの「ひとりごと」</title>
      <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/</link>
      <description>昭和二年生まれの筆者が語る昭和の世相と真実</description>
      <language>ja</language>
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         <title>[164]大相撲見物</title>
         <description><![CDATA[<strong>第164回</strong>

<strong>■大相撲見物</strong>

「大相撲見物」と云っても、そういつも見物に行かれるものではありません。一度も親に連れて行って貰ったことはありません。当時の大相撲は一年に二場所しか開催されず、それに一場所13日間です。此の相撲の開催場所には、学校のお休みの時には、がぁがぁーとうるさい並四球のラジオにしがみつくようにＪＯＡＫの実況放送を聞いて、勝ち負けをメモすると云うのが日課でした。

明化小学校の同級生に「佐藤」と云うのがいました。家も近かったせいもありますが、学校が終わるといつも遊びに来ては相撲の話でした。彼の家にも遊びに行ったことがありましたが、いつも両親にあったことがありませんでした。いるのは何時もお婆さんだけでした。両親はいなかったようです。

ある時此の友達が相撲を見に行こうと云ったんです。「ええー」っとビックリしました。幾ら掛かるのかお金もないし・・と云ったら、「金なんていらないよ」って云うんです。でも相撲は見たいから付いて行ったんです。省線に乗って両国で降りたんです。すぐ前に両国の国技館がありました。屋根の丸い大きな建物です。どうして見るのかな・・と思っていたら裏の方に回ると、大きなカーテンで仕切ったところがあったんです。そしたら「佐藤」が後ろ向きにそのカーテンから入ろうとしました。

すると法被（はっぴ）姿のおじさんが「おい、坊やそんなところから出ちゃダメだ・入って入って」と却って場内に押し込められてしまったのです。まんまと只で入場出来たと云う訳です。

中に入ったはいいけど、自分の指定席はありませんから、土俵に通じる通路で、一番土俵に近いところに陣取って見物としました。初めて見た相撲の迫力にビックリしましたね。並の人間より大きな力士がぶつかり合い、投げ合うのですからね。

一階は桟敷席で六七人の人達が、飲みながら、弁当か仕出しのものをつっきながらの見物です。見上げれば丸い大天井ですが、三階までありました。そして周りには優勝力士の大きな額がずらりと掲げられていました。

昭和13年頃の両国国技館の相撲は春・夏の一年で二場所しか開催されませんでしたから、優勝力士も1年に二人ですから優勝掲額も少ないわけで、此の国技館が出来たのが明治40年ですから、ここで優勝した力士は最初から見ることが出来た訳です。

ですから一番古いのは明治42年に優勝した平幕の「高見山酉之助」で、明治43年は、横綱「常陸山谷右衛門」と大関「太刀山峰右衛門」、明治44年春は大関「太刀山峰右衛門」で夏は横綱「太刀山峰右衛門」・・というように昭和13年まで68枚の優勝掲額がずらりと二周に渡って掲げられていました。そして土俵には今と同じく櫓がありましたが、違うのは四本柱があったことです。座る場所によっては、柱の影になることもあって、見づらい事もあったようです。

僕らは子供ですから、まして自分の指定席もないわけですから、花道の土俵の直ぐそばで、隅っこのところで小さくなって見ていました。誰も何にも云いませんでした。ここを「砂かぶり」と云うんです。

法被姿の「呼び出し」が、土俵に上がって､扇子を広げ、美声で力士の呼び出しをするのですが、これも行司と同じように「位」があるようで、中入りからだんだんと「位」が高くなって、さすがに通る声で綺麗でした。名調子は呼び出し「小鐵」と云いましたかね？

又一番最後の取り組みには「木村庄之助」の「番数も取り進みましたるところ、方や鏡岩、方や双葉山、此の一番を以て本日の打ち止め」と云うセリフは現代までも変わりませんね。唯、違うのは当時は「横綱双葉山」が連勝中であったため、どうせ勝つに決まっている・・と言う見物人が多かったせいで、桟敷席のお客さんは見ないでぞろぞろと帰ってしまう始末でした。何しろ此の「双葉山」は昭和11年夏場所から連戦連勝の記録を作っていた最中の時でしたからね。

当時の力士はやはり子供達の人気は「横綱」でしょうね。現役は「第32代横綱　玉錦三右衛門」「第33代横綱　武蔵山　武」「第34代横綱　男女ノ川登三」「第35代横綱　双葉山定次」の四横綱でした。此の横綱のことに関しては、又項を改めて書きたいと思います。

国技館で相撲をタダで見物した後で、力士達が出てくる出口で待っていると、浴衣がけの力士が続々と出てきました。みんな大きいのでビックリしました。中でも「出羽ヶ嶽」・・背が高くて腹は出ていませんが、40貫もある巨漢です。此の「出羽ヶ嶽」は人気者で、出てくると女性ファンが黄色い声で「文ちゃん」と声を掛けていました。当時の相撲取りは40貫と云えば、一番大きく重い力士であったと思いますが、40貫は現在では150Ｋｇぐらいですから、あまり大きいとは云えませんね。

又「磐石」と云う力士は、凄い太鼓腹で、自分の子供ですかね、軽々と抱いて歩いて来ました。何しろ初めて見たわけですからビックリ仰天の連続でした。家に帰っても親には内緒でしたよ・・・。
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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Sat, 16 Feb 2008 07:35:22 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[163]子供相撲対抗試合</title>
         <description><![CDATA[<strong>第163回</strong>

<strong>■子供相撲対抗試合</strong>

子供相撲では、一年に一回は他校と対校相撲大会がありました。より抜かれた各校の六年生です。各校10人くらい出ていました。場所は「明化小学校」の直ぐそばに、後に横綱審議会の会長になられた「酒井忠正伯爵」のお屋敷があり、その庭に本格的な土俵があったんです。その土俵が対校試合の場所に使われました。

対校試合ですから、各校の名誉がかかっているわけですから、負ける訳にはいきませんね。選手はみんな真剣です。勝負は各校10名づつの勝ち抜き戦です。参加校は四校です。勝ち抜きですから、勝った選手は続けて何人とも戦わなくてはなりません。勝ってもせいぜい三人くらいですね。10人全部負けた学校はそれで終わりです。

明化小学校も勿論出場します。六年生120名の中で10名選ばれるのですが、私も入っていました。当日は各校から応援団が来て、大変な賑やかさです。来賓には政界からも来ていたようですが、ハッキリとは分かりませんが、大相撲の立浪部屋からは、横綱双葉山、大関羽黒山、関脇名寄岩の三人が来ていました。立浪三羽烏・・さすがに大きいですね。

出場選手は「電信柱」と云われた背の高い者も、極端に小さい「チビ」も「百貫デブ」と云われた肥満児もいません。これらは却って相撲は弱いのです。選手に選ばれた私達は、ずいぶん緊張もしたし、張り切ってもいました。私は母の作ってくれた「帯芯」の「褌」（まわし）を締めて勿論出ましたよ。でも結果は思わしくありませんでした。

私は三番目に出ましたが、相手の一人には勝ちましたが、二人目との勝負で、土俵の俵のところで同時に倒れたときに、俵に左の横腹を嫌と云うほど打ち付けて、暫く立ち上がれない程の痛さでした。結局負けになりました。・・・ついに明化小学校は優勝できませんでした。

全部終わったところで、大相撲の双葉山、羽黒山、名寄岩が代わる代わる土俵に上がって、子供達が一斉に飛びかかる相手をしてくれましたが、びくとも動きません。さすがに大相撲の力士だと思いましたね。
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         <category>子供の遊び</category>
         <pubDate>Wed, 13 Feb 2008 00:58:10 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[162]相撲で歯を折る</title>
         <description><![CDATA[<strong>第162回</strong>

<strong>■相撲で歯を折る</strong>

子供相撲の時ではありませんが、放課後の学校の校庭で同級生と相撲を取ったときです。コンクリートの運動場の片隅で何人かと相撲を取っていたのですが、この時「山田君」と取った時です。初めてだったのですが、あまり大きくない相手だったのですが、こいつは凄く強かったです。なかなか勝負は付かなかったのですが、相手の「上手投げ」を食らって同時に倒れました。

その時、倒れ方が悪かったのですね、受け身をやっていましたから、倒れる時も手を突きません。手を突くと腕が折れてしまうからです。・・なんと顔を正面からコンクリートにぶつけてしまったのです。・・そうして「前歯」を二本折ってしまいました。もの凄く痛く、口を押さえて便所に駆け込んで、口を押さえました。唇は切れて血で真っ赤です。誰もいませんでした。自分一人で暫く佇んでいました。

一時間くらい経ったでしょう、校庭にはもう誰もいませんでした。仕方なく家に帰りましたが、母は私の顔を見て「どうしたの、其の顔は」と聞いて来ましたが「転んだんだ」と云ったら「そうかい」で終わりです。

次の日には唇の腫れは引きましたので、知らん顔して学校に行きましたが、友達も先生も何も云いませんでした。二三日経って母が「みっともないから、歯医者に行っておいで」と云いましたので、丁度家の斜向かいに「桑原歯科医院」と云うのがあって、そこに行ったら「どうして前歯なんか折ったの」と聞かれたけど、何も答えませんでした。

そして「差し歯」を作るからと云って、歯形をとって「一週間経ったら又お出で」とその日は帰りました。そして一週間後に差し歯が出来て、前のように変わらない歯になったのです。少し筋が入りましたけどね。当時はプラスチックなんかない時代ですから多分象牙だったと思いますよ。費用は幾ら掛かったか知りません。母が払ったのですから・・。
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         <category>子供の遊び</category>
         <pubDate>Fri, 08 Feb 2008 08:17:20 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[161]子供相撲</title>
         <description><![CDATA[<strong>第161回</strong>

<strong>■子供相撲</strong>

相撲にはプロの大相撲もあれば、子供相撲も盛んでした。大相撲は見る相撲でしたが、子供相撲は自分で取る相撲ですから、これには夢中になりました。

この当時の小石川の住宅地には、あちこちに空き地が沢山ありました。ですから夏休み頃になると、其の空き地に町内会で土俵を作って、子供相撲が毎晩行われるのです。大体子供相撲は中学一年生くらいの年までで、それ以上は大人の相撲になりました。ですから子供相撲には中学生以下であれば年齢制限はなかったのです。

相撲を取るには大抵「六尺」（晒しのふんどし）ですが、私は母にねだって、帯芯で「褌」（まわし）を作って貰いました。子供にしては本格的でしたよ。物資のないころで母が自分の帯をほどいて、芯に使っていた物で作ってくれたのですから、相撲には負けるわけにはいきません。

私は「電信柱」（背の高い奴）じゃありませんでしたが、足腰が強かった上に、近くにあった「理化学研究所」の相撲部に暇があれば通って「受け身」の練習はしていました。相撲は取らしてくれませんでしたけど「四股」とか「鉄砲」とか倒れた時に骨折しないように「受け身」の練習です。これから何年も相撲はしてきましたが、一度も骨折はしたことがありませんでした。

町内の子供相撲は大抵夜で、裸電球が何個か付いていましたが暗かったです。6時くらいから始まりますが、一年生から三年生くらいのチビッ子力士から始まります。勝てばお菓子を貰えます。だんだん大きくなって、五年生、六年生、中学一年生、二年生と進んで行きますが、この辺になると区別はありません。

覚えていることは、一年生、二年生くらいのチビッ子が束になって掛かってくる、5人抜き、10人抜きの相撲です。何人掛かってきても、こちらは負けませんが、怪我をさせないように取ることが難しいのです。土俵は盛り土をした高い本格的のものですから、投げ飛ばすと土俵の下に転がってしまい、「受け身」が出来ていませんと、直ぐに骨折してしまいます。

毎晩此の子供相撲は楽しくて、いつも必ず出ていました。一回も負けたことがありませんでした。あるとき学校は違いますが同じ六年生の「多田君」と云う、私の仲良しの友達と取っていたのですが、彼もなかなか強かったのですが、私の投げに土俵下に落ちたときに怪我をしてしまいました。町内の役員が彼を立たせて、両腕を上に上げようとしましたが、腕が上がらないのです。直ぐに接骨院に連れて行きましたが、「鎖骨」が折れていました。しばらくは腕を釣っていましたが、友達としては仲違いはしませんでした。

此の子供相撲は、「大月」「中村」「多田」と私の四人の天下でした。皆同じくらいの年でしたが、学校はそれぞれ違っていました。薄暗い裸電球のついた土俵でしたが、ふと見ると父親がそっとのぞきに来ていたこともあったようです。

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         <category>子供の遊び</category>
         <pubDate>Wed, 06 Feb 2008 00:24:29 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>[160]母校・明化尋常小学校</title>
         <description><![CDATA[<strong>第160回</strong>

<strong>■母校・明化尋常小学校</strong>

私は前にも少し書きましたが、生まれは東京日本橋ですから、幼稚園と小学校は日本橋の「十思尋常小学校」に入学し、昭和10年三年生の一学期限りで、小石川に移りましたので、三年生の二学期から此の「明化尋常小学校」に転校して来ました。

此の学校の校舎は鉄筋三階建てで、運動場も広く、その端に大きな１本の「欅」の木が立っていました。明るい日差しの中で木の葉がゆらゆらと動いていました。ここで此の「明化尋常小学校の校歌」を記して置きたいと思います。創立以来校歌はあったと思うのですが、ここに書き留めた校歌は「昭和5年　武島又次郎作詞、田村虎蔵作曲」とあるもので、比較的新しいものですね。この間贈られた「創立130年誌」には昭和5年までは特別「校歌」はなかったようなことが書かれていますけどね。
<blockquote>　 （1）♪　緑しげれる　樹々の丘
　　　　　　歴史久しき　わが校の
　　　　　　雄姿を日ごと　あおぐにも
　　　　　　学ぶわれらの　ほこらるる　♪

   （2）♪　いざいざ共に　励みつつ
　　　　　　絶えぬ努力に　すすみなん
　　　　　　たぐいすくなき　日の本の
　　　　　　明るき文化　築くべく 　　　♪</blockquote>
先日明化小学校宛に、私達の卒業写真を送って、同窓生達の卒業名簿があったら欲しい・・と云ったのですが、現在の校長先生から丁重な返事を頂きました。一生懸命に探してくれたと思いますが、何しろ69年前のことですから、当時の卒業生だと云う名簿の断片を送って下さったのですが、50名ほどの名前には男は2名しかおらず、後は殆ど女性でした。

当時は学校には一組、二組が男子で、三組、四組が女子でしたが、男と女の交流は殆どありませんでしたから、全然知りません。何しろ「男女七歳にして席を同じゅうせず」と云う時代ですからね。

明化尋常小学校の歴史は古く、恐らく東京で一番古いのではないかと思います。先日の現在の校長先生からお手紙と一緒に、3年前に創立130年記念の小冊子を頂きましたが、その中には色々な当時の写真などが載っていましたが、先ほど書きました校庭にあった大きな「欅」は今はないそうです。その代わり「楠木」があるそうです。そしてそこには「欅」の木で作った断片の写真が載っていました。なんか淋しい気がしますね。あんなに大きな「欅」が枯れてしまったなんて・・・

しかし130年もの長い間には、沢山の卒業生がいたはずですが、たしか戦災にも遭わなかったようなので卒業生の名簿と云う記録は残っていないのですかね？又その時に昭和14年の卒業写真も送りましたが、どうしたのですかね？・・もう古い話ですからね。また今の校長先生と云ったって、私の子供くらいの年齢でしょうからね。

創立は明治7年8月で、小石川区原町の浄土寺と云うお寺で、教員3名、児童20名、教室１で「明化学校」として始まったらしいです。そしてその後に竹早町だの大塚窪町に移転したり、後には徳川の屋敷跡を譲り受けて小石川区林町に移ったと云います。その間、東京府小石川区立明化小学校となり、そして明治12年に東京市小石川区立明化小学校となり、そして明治24年に東京市小石川区尋常高等小学校となったようです。

どうして此の学校は「明化」と名付けたのでしょうか？　近隣の後述した小学校は、すべて町の名前が付いていますのに、なぜ「明化」なのでしょうか？・・これは私の勝手な想像で、特別の根拠がある訳ではありませんが、明治維新から当時は「文明開化」と盛んに云われていた時代ですね？　ですから「文明開化」から「明化」と誰か分かりませんが、付けたのではないかと私の想像です。この辺には「明化」と云う地名もありませんし、特別の意味もなさそうですしね。

最初20名足らずで、男子生徒17名、女子生徒3名で発足した学校でしたが、年々生徒が増えて収納出来なくなったので、近隣に沢山の小学校を創って生徒を移したと云います。私が入ったときにも、生徒数は2000人位いたと思いますよ。何しろお昼休みなんか、運動場は一杯でしたもの・・。

分校と云う形で出来た小学校を記しますと、駕籠町小学校、本郷小学校、柳町小学校、指ヶ谷小学校、林町小学校、などですが、常にこれらの学校と対校試合がありました。たとえば「相撲」とか「習字」とか「絵」とかです。六年生になると、これらの選手になって出場しなければなりません。

【関連記事】
<a href="http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2006/09/post_16.php">[17]尋常小学校と通信簿（２）</a>

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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/02/160.php</link>
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         <category>学校と教育</category>
         <pubDate>Sat, 02 Feb 2008 06:50:13 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[159]特別警備隊‥昭和13年</title>
         <description><![CDATA[<strong>第159回</strong>

<strong>■特別警備隊</strong>

昭和13年は前年に「支那事変」が起こりましたので、徐々に戦時体制になって来ました。

「とんとんとんからりと隣組」だの、お母さん達は「愛国婦人会」だの「国防婦人会」だのの仕事が増えて行きました。・・又「出征兵士を送る会」だの、社会の様子が変わって来ました。

私らも、六年生になったので「特別警備隊」と云う組織を学校の内部で出来ました。女子生徒は除いて男子生徒だけで組織しました。6人一組で編成しましたから、六年生の男子生徒は120名居ましたので20組出来た訳です。一組、休みなしの1週間交代で任務に就きます。そして学校の先生が1週間に一人づつ交代で担当します。云ってみればこれは子供の「自警団」のようなものです。

6人一組で構成したのですが、その中で隊長1名、副隊長1名作ります。全部で20組ですから、20週間経てば又任務に就くわけですが、その時は隊長、副隊長は交代します。

その週の担当は、白い襷がけの紐に、隊長は真っ赤な毛糸の房の付いた物で、副隊長は緑の房で、隊員は白の房です。

此の襷は、それなりの権威があったようで、学校の生徒ばかりではなく、一般の人達も「ご苦労さん」と声を掛けてくれました。勤務は朝6時から夜8時までですから、相当きついですが授業があるときでも、教室で襷がけでした。

授業が終わった後は、町中の見回りをして、生徒がいたづらしていないかとか、こそ泥が入っていないかとか、何しろ子供にとっては大変な仕事でした。襷を外して手に持って、それを振り回しているだけで、それなりの効果があったようで、下級生などは、見るなりびびっている様子でした。

とにかく、人の迷惑になるようなことは、絶対ダメ・・と云うことです。
今は万引きなんか盛んなようですが、昔はとんでもないことで、警察沙汰ですよ。昔は八字髭を生やして、サーベルを下げていたお巡りさんでしたからね。怖い存在でした。

1週間の任務が終わったときは、担当の先生の前で、次の任務に就く生徒に申し送りと「襷」を渡します。見回りして気が付いたことは、チャンと申し送りをしなければなりません。こうして連帯感と連帯責任と云うものが、作られて行くんですね。

【関連記事】
<a href="http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2007/09/122.php">[122]支那事変が起きる頃の世界情勢</a>
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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/159.php</link>
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         <category>学校と教育</category>
         <pubDate>Wed, 30 Jan 2008 07:38:26 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>[158]とうとう小学六年生です・・昭和13年</title>
         <description><![CDATA[<strong>第158回</strong>

<strong>■とうとう小学六年生です・・昭和13年</strong>

この年昭和13年4月1日に、明化尋常小学校の六年生・・つまり最上級生になったんです。3月25日に上級生を送り出して、今度は自分が一番上になったんです。

この時代は学校ばかりではなく、日常すべての事に目上の人には従わなくてはならないと云う風潮がありました。ですから上級生に「しごかれる」こともあったんです。だけどそれは社会に対して非常識な行為があったときに「注意」されるだけです。

「三歩下がって師の影を踏まず」・・こう云う言葉があったことを知っていますか？　自分に教えてくれる先生の影も踏まない・・と云う尊敬の言葉です。これは何も先生に対してだけの言葉ではありません。社会すべてに共通していた言葉です。

ですから、外でいたずらなんかすると、何処の誰か分からないおばさんやおじさんから、怒鳴られることもあるんです。怒鳴られたら、絶対に反抗しません。素直に「ごめんなさい」と謝って反省するんです。それが当時の子供達でした。

電車に乗ったり、乗合自動車に乗っても、幼児は別にしても、少年少女は絶対に座席に座りません。座席が空いていてもです。又、幼児を連れたお母さんは、子供が窓に向いて座るのは、今も昔は変わりませんが、隣の人に泥が付いてはいけないので、必ず靴を脱がせます。それが現代ではなくなってしまった社会に生きるための「常識」だったのです。

六年生になったと思えば、自ずからそう云う意識が起きますから、下級生に対しても、優しく面倒を見る・・と云う気持ちが沸きますね。私らは何しろ兄弟が8人も居たのですから、年が二つづつ離れていましたから、私が六年生になれば、直ぐ下の妹が四年生、そして其の下の妹が二年生と云う具合で、常に三人は同じ学校に通っていた訳です。

ですから、私の同級生も同じで、妹同士も又同じ兄貴が居たりして、お互いに兄弟同士の交流もありました。ずいぶん兄妹が家に遊びに来ていましたよ。これは良いことだと思いますね。友達の妹が私の事を「お兄ちゃん」と呼んで、「お兄ちゃんボタン取れているから私が付けてあげるから、針と糸を貸して」なんて云ってくれたりしてましたよ。

そんな可愛い子たちが、今どこで何をしているかな？・・と思いますね。もう80歳近いお婆さんになっているだろう・・とは思いますが、何年経っても思い浮かべる姿は当時のものですね。

【関連記事】
<a href="http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2006/09/post_15.php">[16]尋常小学校と通信簿（１）</a>
]]></description>
         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/15813.php</link>
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         <category>学校と教育</category>
         <pubDate>Sat, 26 Jan 2008 08:57:08 +0900</pubDate>
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      <item>
         <title>[157]昭和の歌・戦前の歌手「ディック・ミネ」</title>
         <description><![CDATA[<strong>第157回</strong>

<strong>■昭和の歌・戦前の歌手「ディック・ミネ」</strong>

　　　<strong>《ディック・ミネ》</strong>

「ミネ」さんと親しまれていた歌手ですが、日本のジャズ歌手の草分けの存在でした。若い歌手も顔負けのタフガイでした。

「ディック・ミネ」は本名は三根徳一と云い、東京帝大卒の教育者を父に、日光東照宮の宮司の娘を母に持ち、四国徳島で明治41年10月5日に生まれました。音楽好きは母親の影響が大きかったようです。父親の転勤で一時新潟に住んだこともありましたが、上京して立教大学に入りましたが、在学中から軟派学生であったようで、相撲部で活躍しながら、ダンスホールなどでジャズに傾倒しました。

そして自分もジャズバンド「ハッピー・ナイン」を作って、バンドの一員となって、アルバイトで歌も歌っていたのでしたが、当時としては珍しいスチールギターの演奏も出来たと云います。それでレコード各社のアルバイト演奏をし、前に書きましたミス・コロンビアの歌った「十九の春」の伴奏も手がけたと云います。

立教大学を卒業した彼は、父親の薦めで逓信省貯金局に就職させられましたが、ダンスホールのバンドメンバーに誘われて、音楽で身を立てることに決意したと云います。

昭和9年にタンゴ楽団で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを「淡谷のり子」に見いだされて歌手の道を歩むことになりました。そしてこの年テイチクの重役であった「古賀政男」の推薦で「ダイナ」をレコーディングし、これがテイチク創立以来の大ヒットとなったそうです。此の「ダイナ」が彼の本格的なデビュー曲となりました。昭和9年のことです。

そして昭和10年には、映画女優の「星玲子」とのデュエット「二人は若い」「波止場がらす」「ゆかりの唄」などが大ヒットしました。

　　<strong>『二人は若い』唄・星玲子とデュエット・・昭和10年</strong>

　<blockquote>　♪　あなたと呼べば　あなたと答える
　　　　山のこだまの　うれしさよ
　　　　「あなた」「なんだい」
　　　　空は青空　二人は若い　　　　　　♪</blockquote>

此の唄は＃３までありますが、若い夫婦の軽快なやり取りが爽やかな情景を表す、明るい唄でした。こうして彼は日本調の歌手とは一線を画す流行歌界の寵児となりました。

そして活躍は日本の歌謡曲ばかりではなく、外國の曲も日本語で歌い、また映画にも出演したり大活躍でした。こうして設立間もないテイチクは「藤山一郎」「楠木繁夫」「美ち奴」などを抱えて大手の会社にのし上がったと云います。

何しろ生涯にレコードにした曲が１００６曲もあると云いますからすべてを書くことが出来ませんので、代表的の物だけを記す事に致します。「夕べ仄かに」・昭和10年、「愛の小窓」・昭和11年。

　　<strong>『人生の並木路』・・昭和12年</strong>

<blockquote>　　♪　泣くな妹よ　妹よ泣くな
　　　　泣けばおさない　二人して
　　　　故郷をすてた　かいがない　　♪</blockquote>

此の唄は＃４までありますが、切々として情感のある歌い方に共感を覚えましたね。

「上海ブルース」・昭和13年、「旅姿三人男」・昭和13年、又映画でも活躍し、日活映画「ジャズ忠臣蔵」とか「弥次喜多道中記」「鴛鴦歌合戦」「名君初上がり」「街の唱歌隊」などのミュージカル映画にも出演しています。戦争が激しくなるに従い、外国人のような名前はいかんとの内務省の指示で、昭和15年に止む無く「三根耕一」と改名しました。

戦後もジャズ歌謡界に活躍し、名前もディック・ミネに戻して「長崎エレジー」・昭和22年や水島道太郎と共演した映画「地獄の顔」の主題歌「夜霧のブルース」を発表しています。此の「地獄の顔」と云う映画は見ていますので、此処に歌を記しておきます。

　　<strong>『夜霧のブルース』・・昭和22年</strong>

<blockquote>　　♪　青い夜霧に　灯影が紅い
　　　　どうせ俺らは　ひとりもの
　　　　夢の四馬路か　ホンキュ街か
　　　　ああ波の音にも　血が騒ぐ　　♪</blockquote>

此の歌は＃３までありますが、ＳＰ盤のレコードを聴くたびに「地獄の顔」に主演した「水島道太郎」のうらぶれた姿が目に浮かびます。その他「雨の夜の喫茶店」・昭和22年、「雨の酒場で」・昭和29年、「忘れるものか」・昭和30年などがありますが、とにかく晩年に至るまで、そのプレイボーイの気質は変わらなかったようです。生涯に４人の妻を持ち、最後の妻との離婚騒動は有名な話です。

昭和54年から平成元年まで日本歌手協会の三代目の会長を務め、勲四等旭日小綬章を授与されています。・・が、平成3年6月10日午前4時急性心不全のために亡くなりました。現在多磨霊園で永眠しています。享年82歳でした。

此処で戦前の芸能界の想い出は、まだまだ沢山ありますが、私が小学校の六年生になった昭和13年の頃の事をここで振り返って見たいと思いますので、一時中断いたします。

飯田昭一

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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/157.php</link>
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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Wed, 23 Jan 2008 08:13:42 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[156]昭和の歌・戦前の歌手「伊藤久男」</title>
         <description><![CDATA[<strong>第156回</strong>

<strong>■昭和の歌・戦前の歌手「伊藤久男」</strong>

　　<strong>　《伊藤久男》（いとう　ひさお）</strong>

「伊藤久男」は福島県で明治43年7月7日に生まれました。本名は伊藤四三男と言います。家業は酒屋でしたが、次男坊のため、東京農業大学校に入れられましたが、途中で飛び出して帝国音楽学校に入ってしまいました。そして同校を卒業して、昭和6年コロムビアに入社しましたが、約10年間は鳴かず飛ばずの状態でした。しかし戦時下の歌謡界で太く男性的な歌い方で徐々に頭角を現して来ました。そして「熱砂の誓い」や「暁に祈る」などがヒットしました。此処に二曲を記しておきます。

　<strong>　『建設の歌』（熱砂の誓い）・・昭和15年</strong>

<blockquote>　　♪　よろこびあふれる　歌声に
　　　　輝け荒野の　黄金雲
　　　　夜明けだ　夜明けだ　大陸に
　　　　わきたつわれらの　建設の歌　　♪</blockquote>

此の歌は＃４までありますが、戦時中の国民の士気を奮い起こさせるような、力強い歌でした。

　　　<strong>『高原の旅愁』・・昭和15年</strong>

<blockquote>　　♪　むかしの夢のなつかしく
　　　　訪ね来りし信濃路の
　　　　山よ小川よまた森よ
　　　　姿むかしの儘なれど
　　　　なぜにかの君影もなし　　♪</blockquote>

此の歌は＃３までありますが、戦時中には国民の士気を鼓舞するような歌も多かったのですが、其の反面このような故郷を思い、恋人を恋うるような歌も多かったと思います。

その他戦時中には昭和15年に「お島千太郎旅唄」などがありますが、此処に書きました『建設の歌・熱砂の誓い』は私には忘れられない思い出があるんです。

それは、昭和16年3月の事でした。学期末試験の前日に高熱が出てしまいました。家の向かい側に三輪医院と云うお医者さんが居て、直ぐに飛んできてくれましたが、病名がなんと伝染病の「猩紅熱」だったんです。すぐに市立駒込病院に収容されて隔離されてしまいました。

約一月入院させられましたが、隔離病棟ですから、家族も面会は出来ませんので、誰も来てくれませんでした。そして一月の間は若い看護婦さんが、付きっきりで看護してくれたのです。ご存じかと思いますが「猩紅熱」は法定伝染病です。熱はすぐに下がりましたが、全身の「皮」が剥けるまで退院は出来ないのです。

特に手とか足の皮膚はなかなか剥けません。そこで看護婦さんは「とげ抜き」で細かく皮を剥いてくれるのですが、その時に美しい声でいつも歌っていた歌が此の「熱砂の誓い」だったのです。14歳だった私はもう今になると此の看護婦さんの姿は思い出せませんが、その歌声は忘れる事が出来ません。「伊藤久男」の歌う声よりも良くその看護婦さんの声を覚えているんですからね。

余談になりましたが「伊藤久男」は特に戦後に数多くの唄を歌ってベテラン歌手になりました。昭和23年に「シベリア・エレジー」、「たそがれの夢」、そして昭和25年の「イヨマンテの夜」が大ヒットしました。

<strong>　　『イヨマンテの夜』・・昭和25年</strong>

<blockquote>　　♪　アホイヤアアア・・・
　　　　イヨマンテー
　　　　熊祭
　　　　燃えろ　かがり火
　　　　ああ満月よ
　　　　今宵　熊祭り
　　　　踊ろう　メノコよ
　　　　タム　タム　太鼓が鳴る
　　　　熱き唇　われによせてよ　　♪</blockquote>

これはアイヌの祭りを歌ったものですが、非常に力強く歌っています。此の唄は＃２まであります。熊祭り・・と云うのがイヨマンテと云うのですかね？アイヌ語でしょうか？

その他に昭和26年に「あざみの歌」、昭和27年に「オロチョンの火祭り」、そして「山のけむり」、昭和28年に「君いとしき人よ」、昭和30年には「サビタの花」など、大自然を讃える歌が多かったです。しかし、昭和58年4月25日に死去しました。享年72歳でした。

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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Sat, 19 Jan 2008 07:59:19 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[155]昭和の歌「十三夜」榎本美佐江</title>
         <description><![CDATA[<strong>第155回</strong>

<strong>■昭和の歌「十三夜」榎本美佐江</strong>

<strong>『十三夜』唄・榎本美佐江・・昭和18年</strong>

　<blockquote>　♪　河岸の柳の　行きずりに
　　　　ふと見合わせる　顔と顔
　　　　立止まり
　　　　懐かしいやら　嬉しやら
　　　　青い月夜の　十三夜　　　♪</blockquote>

此処10年ばかりテレビのブラウン管に姿を見せないと思っていましたら、既に亡くなっていたんですねぇ・・・

「榎本美佐江」は埼玉県川口市で大正13年3月13日に生まれました。本名は「榎本ミサエ」と云います。家が貧乏だったので10歳の時に浅草の劇場主のところに奉公に出されたそうです。昭和9年の頃です。そして14歳の昭和13年に石川県の能登で芸者になりました。そして後昭和15年に東京に移って、日本歌謡学院で唄を学び、戦時の工場や軍隊の慰問等回りました。そして戦後の昭和21年に戦前、小笠原美都子がヒットさせた「十三夜」をヒットさせましたが、時代の流れが変わってしまい、今ひとつ時流に乗れませんでした。

昭和22年に新東宝で「ぼんぼん」の女中役で映画デビューし、以後数々の映画に出演しています。昭和24年にビクターに移籍し、翌年のハワイ興行には芸者姿で歌って大喝采を浴びたそうです。昭和27年には、鶴田浩二とデュエットした「弥太郎唄旅」がヒットし、翌年に東映映画「女難街道」の主題歌「お俊恋唄」が大ヒットしました。

　　<strong>『お俊恋唄』唄・榎本美佐江・・昭和28年</strong>

<blockquote>　　♪　忍び泣きして　からだもやせて
　　　　結ぶ帯にも　女の泪
　　　　こんなわたしに　したまま気まま
　　　　旅に出た人　恨みはせぬが
　　　　思いすごしか　茶碗酒　　　　　♪</blockquote>

此の唄は＃３までありますが、「榎本美佐江」は常に唄っていました。此の年には映画「初恋おぼこ娘」で主演もしています。
何しろ、その鈴を鳴らしたような美声と、天性の美貌とで、日本調美人歌手として人気を得ていました。

しかし昭和30年に国鉄スワローのプロ野球選手金田正一と同棲生活に入って芸能界を引退したことが、彼女にとって不幸の始まりになってしまったようです。当時彼女は10歳も年下の金田の面倒を一生懸命に尽くしたようです。プロ野球の選手であった21歳くらいの金田に身体を揉んだり、さすったり大変だったようです。

そして昭和35年に正式に金田と結婚しました。金田はその後、読売ジャイアンツに移籍して、200勝投手として活躍しましたが、金田に宝塚歌劇団卒業の「雅章子」と云う愛人が出来て、しかも子供まで出来たと云う事で、金田との仲違いが生じて、昭和38年に離婚してしまい芸能界に復帰しました。もうこの時は「榎本美佐江」は39歳になっていました。子供はいませんでしたが、「姉さん女房」としてずいぶん尽くしたようですよ。

カムバック後も「後追い三味線」や「三味線一代」などのヒット曲を出しましたが、晩年までテレビ出演を続けていました。しかし平成10年9月23日に大腸癌のためにこの世を去りました。享年74歳でした。

そう・・テレビに出ていたのはいつ頃までだったでしょうか？何時も島田を結った芸者姿で出ていましたねぇ・・洋服姿で見たことはありませんでした。

此処までで戦前の所謂「うぐいす芸者」のお話は終わりますが、あと戦前に活躍した歌手のことを記しておきます。
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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Wed, 16 Jan 2008 08:04:00 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[154]昭和の歌「美ち奴」エピソード</title>
         <description><![CDATA[<strong>第154回</strong>

<strong>■昭和の歌「美ち奴」エピソード</strong>

＜<a href="http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/153.php">前回</a>より続き＞

しかし、昭和12年には日支事変が起きましたので、此の「美ち奴」の代表曲であったコミカルな「ああそれなのに」は軍部から不謹慎とされて発売禁止となってしまいました。その後も「そんなの嫌い」とか「道行シャンソン」などのヒットは出していましたが、「軍国の母」は戦時歌謡の大ヒットの第一号になったそうです。

そして昭和13年には「霧の四馬路」がヒット、続いて「吉良の仁吉」「街道石松ぶし」「次郎長ぶし」「シャンラン節」などをヒットさせ、又、日活映画にも「花見音頭」「ジャズ忠臣蔵」などに出演し、懇意になったマキノ正博監督の「弥次喜多道中記」「清水港「続・清水港」などに出演し、昭和17年には「歌う狸御殿」戦後の昭和25年には「蛇姫道中」など多数の日活・大映作品に登場しています。

此の「美ち奴」のエビソードには戦時中に「楠木繁夫」と中國に慰問に行ったとき、日本軍の兵士が最前線のクリークに身を潜めているときに、彼女は涙ながらに無線電話で慰問したと云います。昭和18年には故郷の北海道からわざわざ呼び寄せて浅草に住まわせていましたが、昭和20年の東京大空襲のときにいっぺんに両親を失ってしまいました。

こういう悲劇にもめげず、女剣劇の中野弘子と共に活動の拠点を京都に移していましたが、恋仲であった楠木繁夫が三原純子と結婚してしまったこともあって、此の悲劇を振り払うかのように、中野弘子と共に慰問や、全国興行に専念したと云います。
もし、楠木繁夫か美ち奴と夫婦になっていたら・・楠木繁夫の自殺はなかったかも知れないと・・・勝手な考えですが・・・

戦後は取り立ててのヒットはありませんでしたが、昭和25年に九州の民謡としてヒットしていた「炭坑節」が、レコード各社で競作されて、「美ち奴」テイチク盤だけが「三池炭坑の上に出た」と歌われたそうです。

あれから60数年経った今でも、夏の盆踊りのときには「美ち奴」の歌う「月が出た出た・・三池炭坑の上に出た・・」と云う歌を皆さんも聴かれたと思いますね。此の唄は本当に息の長い大ヒット曲ですね。

その後の「美ち奴」は同じテイチクの新人歌手・真木不二夫と恋仲になりましたが、彼には妻子が居たようですが、同棲してしまいましたが、彼の度重なる浮気で、彼女は自律神経失調症になって昭和32年に6年間の同棲生活に終止符を打ったと云います。そして生活のために芸名を「駒奴」と改めて又お座敷に出たそうですが、43歳と云う年齢もあって往年の人気はありませんでした。

そして浅草のアパートで一人暮らしをして自律神経失調症と闘っていましたが、それを知った「中野弘子」は隣室に引っ越しして「美ち奴」を支えたと云います。

昭和40年代には東京12チャンネルで「なつかしの歌声」で、その衰えぬ美声を披露したそうですが、病気の再発は繰り返して起きていたため、昭和53年頃を最後にテレビ出演も出来なくなり、その頃のＮＨＫラジオ「昭和歌謡大全集」に出演したのが「美ち奴」としての最後の放送になりました。

そして都内の病院を転々として療養を続けていましたが、昭和58年に東京都江東区の特別養護老人ホーム「むつみ園」に入所しましたが、後に中野弘子も入所したそうです。所内の演芸会などでは変わらぬ美声を披露していたそうですが、身寄りが無いながらも穏やかな晩年を過ごしたそうです。

しかし、平成8年5月29日に大腸癌のために、親友の中野弘子に看取られながら、波乱に富んだ生涯を閉じました。享年78歳でした。そして「中野弘子」も「美ち奴」の49日を執り行った後に、後を追うかのように、この世を去りました。

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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/154.php</link>
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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Sat, 12 Jan 2008 05:28:28 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[153]昭和の歌「うちの女房にゃ髭がある」美ち奴</title>
         <description><![CDATA[<strong>第153回</strong>

<strong>■昭和の歌「うちの女房にゃ髭がある」美ち奴</strong>

<strong>『うちの女房にゃ髭がある』唄・美ち奴・杉狂児・・昭和12年（デュエット）</strong>
<blockquote>　　♪　何か云おうと思っても
　　　　女房にゃ何だか　云えません
　　　　それでついつい　うそをいう
　（女）なんですあなた
　（男）いや、別に、僕は、その、あの
パピプペパピプペ　パピプペポ
うちの女房にゃ髭がある　　　♪</blockquote>

此の唄は日活映画「うちの女房にゃ髭がある」と言うヒット映画の唄で＃４までありますが、此の映画の主題歌は次に書きます「ああそれなのに」ですが、これが大ヒットとなって、美ち奴（みちやっこ）の名前が不動のものになったと云われています。

<strong>『ああそれなのに』唄・美ち奴・・昭和12年</strong>
<blockquote>　　♪　空にゃ　今日も　アドバルン
　　　　さぞかし会社で　今頃は
　　　　おいそがしいと　思うたに
　　　　ああ　それなのに　それなのに
　　　　ねえ　おこるのは　おこるのは
　　　　あたりまえでしょう　　　　　♪</blockquote>

此の唄は＃４までありますが、20歳の美人芸者の美ち奴が、透き通るような美声で歌っていた声を未だに忘れることが出来ません。美ち奴とは、勿論見たことも、あったこともありませんが、当時は「空にゃ今日もアドバルン」なんてことを鼻歌で歌っていたほど有名でしたから・・今手元にある美ち奴の写真を見ると、美人だし、あの甲高い声が蘇って来るような感じです。美ち奴は沢山の唄を出していますが、代表的のものを上げれば昭和12年の「軍国の母」と昭和14年の「吉良の仁吉」ですが、ここで「軍国の母」を記しておきます。

<strong>『軍国の母』唄・美ち奴・・昭和12年</strong>
<blockquote>　　♪　こころ置きなく　祖国のため
　　　　名誉の戦死　頼むぞと
　　　　泪も見せず　励まして
　　　　わが子を送る　朝の駅　　　　♪</blockquote>

此の唄は＃４までありますが、こういう唄を見聞きする時、胸が締め付けられるような気が致します。わが子、父、夫、恋人などを、心で泣いていても表面には出さず、きっと無事で還って来て欲しいと願っていたと思いますね。

「美ち奴」は大正6年6月8日に北海道浜頓別で生まれました。本名は「久保染子」と云い、父は旅回りの役者だったようで、幼いときから芸事に興味を持っていたようです。特に三味線で身を立てたいと思い、昭和6年に浅草で芸者置き屋「美知濃屋」を営んでいた親戚を頼って上京したと云います。ところが翌年に此の芸者置屋が経営に行き詰まったため、染子は「美ち奴」として芸者になったそうです。

昭和8年に松竹映画「東京音頭」のトーキー部分の撮影に、参加して其の甲高い歌声に評判を呼んで「鶯歌手」と呼ばれるようになっていました。そしてニットーレコードにスカウトされて、昭和9年「さくらおけさ」で歌手としてデビューしました。

ニットー専属時代は、まだ名もなかった作曲家「服部良一」の作品を数多く歌っていましたが、彼女の紹介で昭和10年に服部良一は万里子夫人と結婚することになったそうです。服部良一は前に書きました「服部富子」の兄さんです。

ニットーでは、後に前に書いた楠木繁夫とデュエットした「ああ満州」がヒットしたようですが、毎月のように新譜を出していた「美ち奴」は評判にはなっていたようです。そしてテイチクレコードに移籍して、昭和10年の秋に「ほんに貴方は罪方」で再デビューしました。

そして昭和11年には映画俳優の杉狂児と唄った「細君三日天下」がヒットして「美ち奴」の名前は不動のものになりました。そして前に書きました日活映画「うちの女房にゃ髭がある」がヒット映画となり、此の主題歌「ああそれなのに」が爆発的な大ヒットになったそうです。軽快なリズムと綺麗な歌声で、ずいぶん聞きましたよ。もう70年も経つんですねぇ！

＜続く＞

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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/153.php</link>
         <guid>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/153.php</guid>
         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Wed, 09 Jan 2008 00:26:40 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[152]昭和の歌「船頭可愛や」</title>
         <description><![CDATA[<strong>第152回</strong>

<strong>■昭和の歌「船頭可愛や」</strong>

　　<strong>『船頭可愛や』唄・音丸・・昭和10年</strong>

<blockquote>　　♪　夢もぬれましょ
　　　　潮風夜風
　　　　船頭可愛や
　　　　エー船頭可愛や
　　　　波まくら　　　　　♪</blockquote>

此の歌は＃３までありますが、「音丸」は沢山の唄を歌っていますので、代表的なもののタイトルだけ列記しておきます。

　　『下田夜曲』唄・「音丸」・・昭和11年
　　『満州想えば』唄・「音丸」・・昭和11年
　　『博多夜船』唄・「音丸」・・昭和11年

　　<strong>『花嫁行進曲』唄・「音丸」・・昭和11年</strong>

　<blockquote>　♪　髪は文金　高島田
　　　　おもいうちかけ　角隠し
　　　　私しゃ花嫁　器量よし
　　　　皆さん覗いちゃ　いやだわよ
　　　　あんまり　見つめちゃ　いやだわよ　♪</blockquote>

此の唄は＃３までありますが、当時の花嫁の恥ずかしいと云う風情が現れていると思いますよ。しかし、これを唄ったのが「音丸姐さん」が30歳ですから・・一寸ね・・と云う感じです。

「音丸」姐さんは、東京麻布の出身で、明治39年12月8日の生まれで、本名は、永井満津と云います。生家は履き物商で、始めは生家の家業を手伝いながら、民謡グループに入って活躍していたと云います。そして昭和9年にその美声を買われてコロムビアと契約しました。

そして前に述べたような唄を次々に発表し、戦時下にヒットを飛ばしながら歌謡界に貢献して来ました。戦後の昭和23年にはキングに移籍して、「五木の子守唄」などをレコード化しています。

今手元に何歳の時の写真か分かりませんが、丸髷か島田か分かりませんが、髪を結った年配の「姐さん」と云う感じです。昭和51年1月18日に69歳の生涯を閉じました。
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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/152.php</link>
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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Sat, 05 Jan 2008 08:04:18 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[151]昭和の歌「明治一代女」</title>
         <description><![CDATA[<strong>第151回</strong>

<strong>■昭和の歌「明治一代女」</strong>

　　<strong>『明治一代女』唄・新橋喜代三（しんばしきよみ）・・昭和10年</strong>

　<blockquote>　♪　浮いた浮いたと浜町河岸に
　　　　浮かれ柳のはずかしや
　　　　人目しのんで小舟を出せば
　　　　すねた夜風が邪魔をする　　　♪
（ここで此の唄は次の「新内ながし」が入ります）

「巳之さん堪忍して下さい。騙すつもりじゃなかったけど、どうしてもあの人と別れられないこのお梅の気持、騙したんじゃない　騙したんじゃない・・・ァ　巳之さんお前さん何をするの　危ない！危ない！堪忍して　か・・・ァ　巳之さん巳之さん　あたしは大変なことをしてしまった」</blockquote>

此処で此の「新内流し」のセリフについて、少し説明しておきます。

此の曲「明治一代女」は、花井お梅事件（別名箱屋事件）と云って実話で、これを題材にして作家の川口松太郎が小説にしたものと云います。そして其の小説を元にして、藤田まさとが作詞したものと云います。

此の「花井お梅事件」と云うのは、美貌で勝ち気な芸者お梅は二十歳そこそこで待合いの女将になったのですが、名義人を父にしたばっかりに自分の待合いから閉め出されました。何とか店を取り戻そうと、かって自分が芸者時代に箱屋として使い、また待合いの使用人としても使っていた「峯吉」（唄では巳之吉）に相談しました。

しかし、峰吉はお梅に多大の恩義があるのに、欲に目がくらんで、父親の側に立ってお梅を逆に苛み、あろう事かお梅に関係を迫ったと云います。逆上したお梅は、峯吉を浜町河岸に追い、背中に出刃包丁を突き刺して殺害したと云います。峯吉殺しを父親に告げてからお梅は日本橋久松署に自首したと云うことです。

男尊女卑、家父長の時代ですから、もう少し早ければ首切り淺右衛門の時だったかも知れませんが、山田淺右衛門の斬首が行われたのは明治5年で其の最後の罪人は「高橋お伝」だったと云います。お梅は無期懲役になったそうですが、希代の毒婦と云うことになったそうです。

話を前に戻しまして「明治一代女」を唄った「新橋喜代三」について書かなければいけないのですが、沢山の唄を唄っている割には、其の経歴がハッキリしません。名鑑に載っていませんので断片的に分かっていることだけを記しておきます。

出身は沖縄県の西表島で明治36年に生まれたと云います。そして、大正5年に芸者に出ました。大正15年鹿児島で「小原節」の歌い手として名を上げ、昭和6年にレコードデビューしました。そして昭和9年、日本橋三越の鹿児島名産展での「鹿児島小原節」でヒットし、昭和10年に此の「明治一代女」で大ヒットしたのです。

映画にも出演し「丹下左膳余話・百万両の壺」などをこなして居ます。昭和12年に34歳で作曲家の中山晋平と結婚し、芸能界から引退しました。しかし、当時の写真を見ると、中々の美人でしたね。昭和38年死去し、多磨霊園の中山家の墓にご主人とともに眠っています。享年60歳でした。
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         <link>http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2008/01/151.php</link>
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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Wed, 02 Jan 2008 07:41:13 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>[150]昭和の歌「天竜下れば」</title>
         <description><![CDATA[<strong>第150回</strong>

<strong>■昭和の歌「天竜下れば」</strong>

　　<strong>『天竜下れば』唄・市丸・・昭和8年</strong>

　<blockquote>　♪　ハアー天竜下ればヨー　ホホイのサッサ
　　　　飛沫に濡れてヨ　咲いたさつきに
　　　　咲いたさつきに　虹の橋
　　　　ホンに　アレはさの
　　　　虹の橋　　　　　　　　　　　♪</blockquote>

此の歌は＃３まであります。
此の「市丸姉さん」は当時は「<a href="http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2007/10/1288.php">小唄勝太郎</a>」と並んで有名な芸者歌手でした。子供だった私達にはあまり興味のある唄ではありませんでしたが、父の世代には大持てだったと思いますよ。

「市丸」は明治39年7月16日に長野県松本市で生まれました。本名は後藤満津江と云います。19歳の時に上京し、昭和6年に浅草で芸妓をしているときに、日本ビクターの専属となり、「花嫁東京」でデビューしました。その後「天竜下れば」や「チャッキリ節」などが大ヒットし、花柳界出身歌手の草分け的の存在となりました。

美貌の「市丸」でレコードは次々にヒットしていましたが、常に「<a href="http://www.tamagoya.ne.jp/showa/archives/2007/10/1288.php">小唄勝太郎</a>」と張り合って居たようです。又昭和9年頃からは各映画会社からの出演依頼も多かったようです。

「伊那の勘太郎」は私も見ましたが、市丸も特別出演していたようです。戦時中の映画でしたが、この頃は市丸も屡々戦地に慰問に行っていたようですが、彼女は非常に気も強かったようです。ある時慰問先で酔っぱらった将校が､嫉つっこく酒の酌をしろ・・と強要したそうです。

市丸は断ったらしいですが､将校は刀を抜いてまり掛かったと云います。市丸は「大和撫子として最後を飾りたい」と云って足袋を履き直したと云います。すると将校は其の形相におそれを成して諦めた・・と云うことです。昔の軍隊の威張った将校には、こんな奴はいくらも居ましたね。

戦後には昭和24年の「三味線ブギウギ」が有名です。そして10年間続いた「三越唄ごよみ」などで新しい小唄ブームを作りました。昭和47年には紫綬褒章を授章、更に昭和56年には勲四等宝冠章が授与されました。しかし、テレビに映画にと活躍した人生でしたが、平成8年に卆寿を迎えましたが、平成9年2月17日に心不全のために死去しました。享年90歳でした。

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         <category>大衆娯楽と芸能</category>
         <pubDate>Sat, 29 Dec 2007 07:50:02 +0900</pubDate>
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