〔23〕怒られる幸せ

先日会社で大きなミスをしてしまった。オーダーがきて、手配したまではいいが、その納入先を間違えてしまっていたのだ。「たいしたミスではないじゃないか」そう思われるかもしれない。確かに誰にでもありそうなミスだ。

しかし(細かい話しになるが)私が今いる業界は紙業界だ。しかも書籍の紙を流しているので、ミスは許されない。納入先を間違えた、納入日を間違えた、ということでその書籍が発売日にでなくなってしまう可能性だってあるわけだ。

とりあえず、その時はなんとか別の車を手配し“間違った納品先から、オーダー通りの納品先にいれ直す”ということが短時間でできたので、事無きを得たわけだが、私は担当の営業マン、課長、部長にも頭を下げた。「私のうっかりミスとしか言いようがありません。本当にすみませんでした。」と。

こういうことがあると私は本当に心底へこむ。「会社から一歩でも外に出たら仕事のことは考えない」そんな主義の私でも、さすがにその日は一日中落ち込んだ。

単純なミスだった。魔が差したといってもいいほどのミスだった。そんなミスであればあるほど、“根拠”や“原因”が無い。きちんと理解し、わかっていただけに、自分への責め言葉も見つからなかった。

そう思うと同時にもう1つのことが頭に浮かんだ。

「何故、こんな基本的なミスを犯したのに、怒られなかったのだろう」

部長も課長も担当の営業マンにも「いいよ。誰だってするようなミスだし、時間はかかったけど、ちゃんと納入もできたんだし。大丈夫大丈夫。」そう言われて、なんだか逆に私の方が慰められたような気分になった。

うちの部の内勤は私を入れて3人。私以外の2人は26歳と27歳の新卒男性だ。彼らも私と同じようなミスをすることがあるが、彼らは頭ごなしに怒られる。「オマエ何やってんだよ、これミスったら、ペナルティがどのくらいになるかわかってんだろうが。もっと身を入れてしっかりやれ!」と。

怒られるのはいやだ。だけど「ミス」をしたのだ。少し厳しく注意されてもいいようなものだ。逆に自分に反省材料がないだけに、責め言葉が見つからないだけに、誰かに怒ってほしかった。

それは私が“女”だからなのだろうか。それとも別会社から来ている“派遣さん”だからなのだろうか。

昔、学生時代の地元の友人らと飲んでいた時に、同級生の男の子がこんなことを言っていた。

「最近さ、俺にアシスタント的な社員が入ってきてさ、それが30になったばかりのババァなんだよ。はっきり言ってそいつ気取ってんだ。確かにキャリアもあるし、大きな仕事任せてもきちんとやってくれそうな雰囲気はもってるんだけど、何かあった時にそういう女には強く言えないわけよ。だから細かい仕事ばっかやらせてるんだ。」

はたと、いつのまにか私もそういう30女になってるのかもしれないな、と思った。

私が正社員で入った新卒の頃は、怖い先輩が多くて、しょっちゅう怒られた記憶がある。お茶の入れ方から、お客様がきた時のお辞儀の仕方から、厳しく怒られながら指導された。

そしてある日、教育担当でもある先輩と食事をしに行った時、「山口ちゃんに対してみんなが怒りやすいのは、あなたが“怒って厳しく注意すればちゃんと解って、覚えてくれる”と信じてるからよ。かわいがられてる証拠なのよ」と言われたのだ。

その時、私は今よりまだ若く、先輩の語る意味がよくわからなかったが、「誉められてるような、けなされてるような、」なんて思いながらも、“怒ってくれる人”に感謝したものである。

そうやって1つ1つわかりあいながら、本来スカスカに感じることの多い“縦の人間関係”は“信頼できる人間関係”へと築き上げられていくのではないだろうか。

そんな風に考えていくと、私は派遣になってから、30になってから、「怒られる」ということが殆どなくなった。

人は立場や年で、その人を位置付けて行く。

私はもうすでに「怒る必要のない人間」「怒るに値しない人間」と位置付けられているのではないか。また、それと同時に「怒りにくい」という雰囲気を醸し出してしまっているのではないか、そう考えたらふと悲しくなった。

派遣だろうが、30女だろうが、ミスをした時には厳重注意をされるべきだ。人間は怒られながら、意見をぶつけ合いながら、それによって考えて、成長していくものなのに。

「私って30女独特の雰囲気持ってる?」

今度誰かにそう聞いてみよう。ちょっと勇気のいる質問だけど、このまま頭の中空っぽになっていくのは悲しいもんね。「しっかり年をとっていきたい」と思うから。

2001.11.16

〔22〕リセット

気がつけばもう今年も残すところあと1カ月とちょっと。私の周りも徐々にそわそわし始めてきました。仕事、プライベート共になんだかハードになってきそうな雲行きです。ばたばたと時間に追われていると、つい本来の自分を見失ってしまう私。先日ちょっと会社をズル休みして自分を取り戻す時間を作ってみました。だいぶ元気になってきたので、この調子で年末乗りきることができればいいな、と思っています。

私は今思えば、小さい頃から反抗的な人間だった。父からは「我が強い」と、母からは「短気」と言われた。

事実、中学時代は髪の毛を脱色したり、制服のスカートを短くしたり、と校則違反を繰り返す、いわば問題児だったのだ。

高校に入って行動範囲が広がってからは、更にそれはエスカレートしていった。悪友達と一緒に夜な夜なディスコやクラブに繰り出し、朝帰りをし、学校を休んだ。今思えば何でも適当に気の向くままに遊び、何をするにもはじけていたのだなぁ、と思う。

そんな私だから、派遣でフラフラ働いているとは言え、今はそれなりに“地に足のついた”生き方をしているつもりだ。配属される場所によって、そこの色に、ちょっとだけ自分を染め、小さい頃一切もらえなかった「よくできました」というはんこうを、今もらっているような気がする。

確かに「よくできました」と言われることは嬉しい。上司に誉められるために「しっかり仕事をしなくちゃ」と思う。そして「山口さんありがとう。助かったよ」といわれると「今日も一日いい仕事をしたな」と安堵のため息をつく。

ただ、そんな風に精神的に安定したかのような生活が数カ月ほど続くと、私には必ずと言っていい程、「全てをシャットアウトせざるを得ない時」がやってくるのだ。

目から入ってくるもの、心に感じること、皮膚にまとわりつく空気、それが心地いいものであろうとなかろうと、全てをシャットアウトしてしまいたくなる、「生きている」ということにすら反抗してしまいたくなるような瞬間だ。

「このまま会社に行ってしまったら、私は酸欠状態の金魚のように呼吸が荒くなり、倒れてしまうだろう」そう思い、怖くなる。

試合中のレスラーが締め上げられてる時、必死でロープを掴み、リング下に下りて、呼吸を整えるためにいったんエスケープする。呼吸をちゃんと整えておかないと、リングに戻っても負けてしまうだろう。新しい自分で戦うために、今までの自分をリセットしなければならない。それと同じような感覚なんだと思う。

そんな時、私は何かに反抗するかのようにに会社を休む。そして休んだ初日に「あと2~3日休むだろう」とすでに確信を持っている。野生の勘というものだろうか、「そうしないとダメだよ」という独自の警報が私の中で鳴るのだ。

そして日がな一日、ボーッとしながら、詩を書いたり、それを自分の弾くギターのつたないメロディーにのせながら歌ってみる。「なんじゃ、こりゃ。変な曲だな」なんて1人で笑いながら、ベランダで洗濯物と一緒に太陽に当たる。

それは、いつのまにか反抗の仕方を忘れ、大人になってしまった私ができる1つの小さな反抗だ。

大きな社会の呼吸に巻き込まれながら、いつもそれに負けてしまう。仕事や日常生活でせわしなく動いている自分を好きになるよう努力して、「私はそういう人間なんだ」と思い、信じこむ。

不思議なことに、せわしない日常の中では、物事を素直に受け入れようと思えば思うほど、自分を見失ってしまう。私にとっての本当の休息は、そんなおかしな観念を見つめ直し、「つい忘れてしまう自分」を取り戻す大切な時間だ。

「あ、やっと大きく深呼吸ができた!」

そう感じた瞬間、私は閉じていた目をまた開けてみる。明日からはもっと私らしく“反抗”しながら生きていこう、とハッパをかける。本来の自分にリニューアルするために。もっと自分らしくパワーアップするために。

2001.11.09