〔46〕「いるもの」と「いらないもの」

自分で言うのもなんだが、私は人を見る目がある方だと思っている。人より少しだけ多く、企業を渡り歩いてきたからなのだろうか。信頼できる人とできない人の違いのようなものが第一印象からくるインスピレーションで、だいたいわかってしまう。

10年間働いてきて、行く場所行く場所で“大切な人”が必ず何人かできた。その“大切な人”は、私に生きていく上でのヒントを与えてくれ、たえず前を見て進むよう働きかけてくれているような気がする。

今の会社でも、こんな私と仲良くしてくれてた“大切な人”がいた。その人は花井さんといい、3月でめでたく定年退職を迎えた初老の男性だ。

花井さんは俗に言う「オヤジ」という言葉が全く似合わない、大人の雰囲気を持った、品のいい、でもちょっと子供のようなところのあるおちゃめな方だ。

彼はことあるごとに私を飲みに連れていってくれ、私と同じ目の高さで物を見、意見を言ってくれた。いつのまにか私達は、性別や年齢という壁を超えた「親友」になっていた気がする。

私は彼が大好きだった。何かに行き詰まった時に相談すると、必ず「しじみちゃんの思った通りにやった方がいいよ」とニッコリ笑って言ってくれる。それは私を心底安心させた。人をけなすようなことを言いながらも、その中に必ずあたたかさがあり、それは私だけでなく、他の人達をもホッとさせてくれていたのだと思う。

そんな彼に、先日の送迎会の席でどうしても聞きたかったことを聞いてみた。「花井さんはどうしていつもそんなに楽しそうにしてるんですか?どうすれば花井さんみたいに生きていけるのか教えて下さい」

すると花井さんは「え?」という表情をし、こう言った。「だた1つだけ。楽しくすることだよ。現代っ子はそれが解らないんだね」

「私もしじみちゃんくらいの頃は色々なことに悩んだよ。先のことだけでなく翌日のことでさえ。ここにずっといていいのか、夢を追って仕事を辞めてしまおうか。そして大きな悩みにぶつかる度に何か1つずつ捨ててきた。で、最後の最後に残ったのは“楽しく仕事をしよう”“楽しく生きていこう”とそれだけだった、ってわけだよ。でもそれが正解だったんだな」

花井さんはそう言ってゲラゲラ笑った。

私はちょっと意外な気がした。花井さんは人が生きていく上で大切なもの全てを身につけているように見えたからだ。

「何か」という部分には敢えて触れなかったが、それはたぶん人間の心の奥深い部分なんだろうな、と私は取ることにした。自尊心とか、虚栄心とか地位とか権力とか、たぶんそういったものではないか、と。

例えばそういう「何か」を“捨てよう”と思った時、その行為にはすごい決心と勇気がいる。私なんてその決心や勇気がなくて、いつも結局それができない。

「“捨てる”ことかぁ。私は、いつも何かを考えてばかりで、先に進むことができなくて、どこかで無理をしている気がするよ。」そんな風なことを言ったら、「いらないモノから捨てなさい」とキッパリ言われた。「楽しくなかったら、生きている意味、あるか?」と。

「いるもの」と「いらないもの」優柔不断な私は、全てが「いらないもの」という気もするし、でもやっぱり全てが「いるもの」という気もしてくる。

煩わしいな、と感じてることがあってもそれを捨てることはおろか、必死になって、それを落とさないように落とさないようにしている、それが私なんじゃないだろうか。
「いらないもの」の存在が見つかった時、勇気を出して捨て、それを繰り返し、最後の最後に残ったものが、もしかすると“私そのもの”なのかもしれない。

「あれ?しじみちゃん、そのデザート食べないの?だったらもらっちゃうよ」と楽しそうに私の顔をのぞき込んだ花井さんを見ながら、ふと嬉しくて、でもちょっと淋しいような気がして、しばし涙をこらえるのに必死になってしまった私なのであった。

2002.04.26

〔39〕辞める理由と心の五感

忙しい生活を続けていると「五感が鈍るのではないか」と思うことがあります。先日、街を彩る人工的なディスプレイでしか季節感を感じられなくなっている自分に気付き、ちょっとしょげてしまいました。寒い寒いと思いながらも、ふと金木犀の匂いをかいだ瞬間に「あ、今、春になった」、そう感じられるような健全な心と身体を常に持っていたいと思います。

長く派遣生活を続けていると、「ここももうそろそろかな」と思う瞬間がある。“そろそろ”というのは、潮時、つまり辞め時ということだ。

私は今まで(短期やバックレを抜かし)、合計3社を契約満了というかたちで辞めてきたが、実は辞める時に「これ」といった理由はなかった。

周りの人は「以前から違う職種の仕事がしたかったので」や「結婚するので」、「もう完璧にやって、やり残したもないので」等など様々な理由で、辞めていったが、振り返ってみると私にはそういう確固たる理由が全くなかった。

何故なのだろう。

そこにはたぶん日常の精神状態では計り知れない、心の奥底にある“五感”のようなものが働いているように思うのだ。

派遣という働き方はある意味複雑で、精神的なリスクが多い。言わずと知れたことかもしれないが、実際に「働く会社」と「雇用主」が違う。つまり派遣でいる限り、どんなにその会社の仕事を理解していても、その会社の人間ではないわけだ。

好きで選んだ道とは言え、その動かしようがない事実は、私の心に暗い影、逃げ道、時には安心感などを与えてきた。

「あなたは派遣さんなんだから、これ以上はやる必要ないよ」といわれれば、“悔しい気持ち”と“ホッとした気持ち”の両方が同時に存在してまう。「このくらいはやってよね」と言われると“私この会社の人間じゃないのに”というちょっとひねくれた気持ちと“やらせてもらえるんだ”というある種の希望が芽生える。

両極端な物事をどっちに捉えるか、というのはその人次第だ。常に明るい方に考えられる人、ひねくれて考えてしまう人、色々いると思う。

だが私の場合は、両方の気持ちを割りきったり、切り替えたりする事がうまくできないわけだ。

もちろんそういう人間はたぶん私だけではない。長期の派遣として働いて、1~2年で契約を終える人が多い原因は、実はそういう「精神コントロール」がうまくできないというところにあるのではないかと思うのだ。

その精神コントロールという中枢を使い過ぎ、そのちぐはぐさに疲れ果ててしまった時、心の奥の五感のようなものが「もうそろそろ休みなさい」というメッセージを送ってくれるのではないだろうか。

そして、最近この「もうそろそろ休みなさい」というメッセージが、私の中でうずき出しているような気がする。

そろそろ今の会社を卒業し、ちょっぴりのんびり休んだ後、次の企業に移るのも悪くないかな、と思っている。

2002.03.08