[068]謙遜の美学

日本人には「自分自身をへりくだった言いかた」をするのが一種の美徳とする傾向があります。式典や宴席でのスピーチの出だしも、謙遜こそ美徳という信念のもとに「私ごとき若輩者が・・」とか「僭越ながら・・」などと謙遜の決り文句から始まります。で、これはこれで良いと思うのです。へりくだる意識というのは1歩下がるということで、自分自身を客観的に見なおすという意識が働きますから。また日本人同士の社交的にも潤滑剤的な効果もあるでしょう。

ですが、上記の様に「謙遜」として使う言葉はその実はほとんど謙遜などしてなく、言葉だけの決まり文句でしかないようです。政治家の答弁を見ていても「謙遜」している様で全然「謙遜」などしていないですよね。それどころか開き直っていたりします。

さて、この謙遜の美学ですが、西洋文化圏では全く通用しません。日本では贈り物をする時に「つまらないものですが・・」と贈りますが、西洋でこんなことを言ったら目を丸くして驚かれます。「そんなつまらないもの、なんでくれるの?」

日本でもよく考えたらそうですよね。手土産に美味しいお菓子を持っていったときなど「つまらないものですけど」なんてじつにおかしい。私なんかは美味ししお菓子を持っていったときは、「これ美味しいんです。すぐあけてみんなでいただきましょう!」と切り出します。実際自分で食べたいから買っていくんですが、はい。

ところで「謙遜」が日本だけのものかというと、そんなことはないようです。「謙遜」は東洋文化圏が一番尊重し、続くは黒人の米国文化圏の人々も重んじています。さらにアフリカ文化圏、回教文化圏の人々も「謙遜」を重んじている傾向にあります。しかし西洋文化圏の場合は一転して「謙遜」を重んじないとするようです。

へりくだるというのは、一種の作戦で世渡りの智恵みたいなもの。まずはへりくだっておけば間違いないし、相手の気持ちを傷つけずにすむだろうという無意識に働く処世の智恵なのかもしれません。

もちろん「謙遜」は人間の持つすぐれた特質のひとつであり、決して捨てることはできません。しかし時と場合によっては、その使い方は改めなければならないことが多そうです。